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早婚だったその昔




             村の結婚その昔(1)

            ☆早婚だったその昔

 昨2018(平30)年、民法の一部が改正され、成年の年齢が20歳から18歳に引き下げられた。
 それにともない、結婚が可能となる年齢を「男女ともに18歳」に改め、親の承認は不要とする等を内容とする法律を来年成立させる予定だとのことである。

 それを聞いたとき思い出したのは、私の中学校のころのことだ。ちょうど新憲法が制定されたばかりのころ、「結婚は両性の合意で成立する」もので、結婚は男性が18歳、女性が16歳になったらできるが、満20歳になるまでは親の承認が必要だということを習い、みんなそういう問題に関心を持ち始めたころだったので、興味津々聞いたものだった。そのときの同級生の女の子二人が卒業しても高校に行かず、就職もせず、16歳になるのを待って結婚した、そのことをしばらくぶりで思い出したのである(注1)。
 あのころは16歳で結婚するなどというのは珍しくなってきたころ、だから恥ずかしかったのだろう、あの二人は自分からは絶対にその話をしなかった。その友だちからこっそり聞かされていただけだった。特別打ち合わせたわけでもないのにこれは禁句、みんなうわさもしなかった。卒業後は二人とも同級会にも出てこず、結婚一年目でつまり17歳で子どもが生まれたという風の便りを聞いただけだった。その後どうしているかまったくわからないが、そのうちの一人は先生も認めるほどの色白の細面の美人、もう一人はまだ背の小さい、丸顔の可愛い女の子だった。あの二人、今はどうしているのだろうか。今回の結婚年齢の引き上げのニュースを聞いてどんな感想を持っただろうか。もし今元気であればの話だが、会ってみたいし、聞いてみたいものだ。

 もう一つ、これまた私の若いころに聞いたことだが、山形内陸の農村部出身の後輩の話である(注2)。
 「明治のころの話だが、私のおじいちゃんとおばあちゃんは数え10歳前後で(つまり小学校時代)結婚した。親戚の間柄で、親同士で許嫁の約束を交わしており、小さいころから行き来し、お互いに泊まったりもしていたので二人とも特別何も感じず、学校から帰ってくるとままごとをしたりして二人で仲良く遊んでいたものだと笑っていた。どういう事情でそんなに早く結婚させられたのかは聞きもらしてしまったが、そんなに変わったことをしたという感じではなく、地域では当たり前だったようだ」。

 ここまで書いてきたらまた思い出した、「行き遅れ」という言葉である。
 言うまでもなくこれは「嫁に行き遅れていること」で、なかなか結婚できず年齢が高くなってしまった女性のことをいうのだが、婚期の遅れた男性についても使う場合もある。
 江戸時代は15、6歳までが女性の結婚適齢期で、18歳を超えたらかなりの行き遅れとされたのだそうだが、私たちの若い頃(1950年前後)は男女ともに20代後半になると行き遅れになるとまわりが心配し出したものだった。

 なぜかつてはそんなに早婚だったのだろうか。戦前の民法では男は満17年、女は満15年が結婚可能年齢とされていたのだが、その法律によって早婚になったわけでなく、江戸時代からの早婚の慣行を受けて法の年齢が制定されたのではなかろうか。
 それではなぜ早婚が都市・農村を問わず慣行となっていたのだろうか。

 しかし、私はこれまでこういう問題にとくに関心を持たず、あまり考えたことはなかった。高度成長期以降の農村部の嫁不足問題を考えたことはあったが、そこまで考えをひろげるだけの余裕はなかった。だからどのようなことが一般に言われているのかまったく知らない。定年退職後、本稿を書いたのを契機に考えるようになったのだが、これは当時人生50年どころか40年という短命だったこと、そして手労働段階の小農社会だったことと関連しているのではなかろうか。

 明治期の平均寿命は男43歳、女44歳前後だった。このような短命は乳児死亡率の高さにあるとのことだが、その危機を乗り切った人たちの平均余命も短く、やはり短命社会だった。こんな短命社会・乳児死亡率の高い社会では、ましてや農業・家事労働が苦役的な手作業・肉体作業段階にある社会では、家族経営の維持存続のためにできるだけ早く結婚させて子どもをたくさん産み、跡継ぎ=労働力が確率的に残るように、その予備軍が確保できるようにし、上の子はもちろん下の子も一人前になって働けるようになるまで育てなければならない。
 そうなると、たとえば経営主が今の平均結婚年齢29歳で結婚して、もしも当時の平均寿命の43歳で死んでしまったなどとなれば、一番上の子どもは最高でも12歳、これでは一人前の労働ができず、経営の指図などましてやできない。それは女親がやればいいといっても、重労働の農作業の中心となることはできず、その上家事・育児の労働もある。祖父母がやればいいといっても、当時のきびしい労働と生活で腰が曲がる、神経痛が出る等々でまさに老人になりつつあり、重労働などできなくなっている。これではまともな生産ができず、家族全員食えなくなってしまう。そして土地を手放さざるを得なくなり、生活はさらに苦しくなって家の存続も困難になる。
 こんなことにならないようにするためには、できるだけ早く結婚し、できるだけ早く子どもを産んでもらうしかない。それだけではない、当時の乳幼児死亡率の高さからしてたくさん子どもを産んで補充できるようにもしておかなければならず、ここからも早婚が要求される。

 こうしたことから早婚が慣習化しており、それが明治民法の結婚可能年齢男17、女15歳に反映されたのではなかろうか(などと考えたのだが、専門家でないので間違っているかもしれないし、あるいはとっくに言われていることなのかもしれない)。

 ところで、さきほど10歳前後で結婚したという例を話したが、二人とも当時の結婚可能年齢の男性17歳、女性15歳になっていないので当然正式の結婚届などは出せるわけはないのだが、とくに気にしていなかったと思われる。
 そもそも結婚は地域のしきたりにしたがって結婚式をあげて盃を交わせば成立するものであり、役場に届を出すなどという決まりは後でできたもの、結婚成立とはとくに関係ないのである。だからきっと二人がその年齢になった時に役場に届けたのだろう。
 結婚届とはその程度の位置づけ、役場まで歩いて行くのも当時の交通事情からして大変、とは言ってもお上の言うこと、まあそのうち役場に用事があった時にでも出そう、これが普通の時代だった。
 ところが、いつか役場に届を出そうと思っているうちに忘れてしまうこともある。出さなくともとくに生活に支障はないし、忙しいからなおのことだ。それでもすむのだが、たった一つそれで困るのは子どもが生まれるときだ。慌てて婚姻届けを出しに行く。だから結婚届を出した日と出生届を出した日と非常に近かったり、それどころか出生届の日と両親の婚姻届の日が逆になっていたりする。それでも実生活には困らない。しかし、高校を卒業するときそれを知って自分の出生に何かあったのではないかと悩んだものだったとある農業青年(当時)が笑って話してくれたことがあるが、こんなこともあったのである。
 (次回は5月13日〈月〉掲載とさせていただく)

(注)
1.14年1月27日掲載・本稿第六部「続・家事と花嫁修業」(1段落)参照
2.このことについては本稿で前に触れたことがあるはずなのだが、どこに書いたかどうしても思い出せない、困ったものである。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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