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親の言うままだった結婚



            村の結婚その昔(2)

          ☆親の言うままだった結婚

 いうまでもなく、まだ世間知らずの15、6歳の男女が、ましてや当時の交通手段や情報手段の未発達等のもとでの狭い人的交流範囲のなかで、自分で結婚相手を選ぶなどということは容易ではない。当然、親が中心となって結婚相手を見つけてやり、結婚させることになる。
 結婚させられる方としては、何が何だかわからないうちに親が決めて結婚させられるのでいろいろ不満はあろうともあきらめてそれに従わざるを得なかった。そういう面では婚姻の自由はなかった。
 これはとくに長男=跡取りの立場から見たものだが、男子のいない娘だけの家の長女もこれと同じであり、親の決めた婿を早くもらって家をまもるしかなかった。

 この跡継ぎ以外の息子と娘、これは口減らしのために早く家から出さなければならない。といっても今のように就職口があるわけではなし、家の農作業・家事の手伝いをしながら嫁の口、婿の口を待つことになる。車でちょっと街に行ってくるなどということももちろんできない時代、しかも年中忙しい農作業を手伝わないわけにはいかない時代、地域の中に閉じこもっているために男女の交際なども限界がある。そうなると、親が探してきてくれる、あるいは近隣の人が見つけてきてくれる嫁・婿の口を待ち、親の言うことにしたがって黙って嫁・婿に行くしかなかった。親の言うことを聞かず、親から嫁入り道具も準備してもらえずに嫁に行ったりなどしたら嫁入り先の舅姑にいびられて苦労するだけ、やはり親の言うことにしたがうよりほかなかったのである。

 こうしたことから子どもの結婚に対する親の権限の強さが生まれたのだと思うのだが、そういう慣習が定着する中で、結婚相手は親が見つけてやるもの、決めてやるものということになってくる。そして生産と生活の一体化している「家」の指揮統括権をもつもの(戸主)は家の存続のためにも責任をもって探すことが必要となる。

 もちろん、息子、娘が自分で相手を見つけてきて結婚したいという場合もあろう。しかし、それも親の許可が必要となる。親=家の人事担当責任者としてはその相手が家の経営と生活の維持存続にふさわしいかどうかを考えなければならないからである。たとえば相手の身体が弱くて厳しい農業労働や家事労働に耐えられなければ家族の協業と分業が成り立たず、生活が維持できなくなるので、不許可と言うことになる。季節と天候に制約され、熟練と経験の必要な手作業と筋肉労働によって維持される農業生産と家事、それを営むために必要な家族協業の維持・存続のためには、それなりの条件を備えた嫁(もしくは婿)を選ばなければならなかったのである。
 そしてその親の言うことを息子、娘はきかないわけにはいかなかった。そうでなければ、家族全員が生きていけなくなる危険性すらあるからである。

 家をまもるために親の言うことをきく、これは何も明治政府のいうところの「我邦古来ノ淳風美俗」ではなかった。低い生産力段階からくるやむをえないものでしかなかった。そういう生産力段階から何とかして抜け出して新しい家族協業体を作り出したくとも、明治以前は封建制の下で、明治以降は地主制、商人や高利貸しの支配のもとで、きわめて難しかっただけなのである。
 ところが天皇を頂点とする支配体制を維持するために、「万世一系」の天皇は日本という家の親つまり国民の親である、日本人は親の言うことを聞いて親に尽くして家系をまもると言う「淳風美俗」が日本には昔からあったのだとし、その慣習を民法に取り入れ、婚姻には家長である戸主の同意を必要とし、さらに男が満30歳、女は満25歳に達しない間は家に在る父母の同意を得ることにした。そして「君に忠に 親に孝に」という支配体制への服属の倫理を法的な面からも構築していった(のだろうと私は思っているのだが)。

 かつての農家の長男には自由がなかった。
 まず職業選択の自由がなかった。農業と言う職業を選択しなければ、それも親の営んできた農業を継承しなればならなかった。かわりに、農地等の生産手段の利用と所有を継承し、それで生計をいとなむ権利を獲得することができたのだが(注1)。
 それと対応して居住・移転の自由もなかった。これまでの家と農業を継承していとなむとなれば農地に隣接しているこれまでの家屋等から離れるわけには、居住地を移転するわけにはいかないからである。かわりに居住する家屋を継承する権利を得ることができたが。
 さらに、前に述べたように結婚の自由がなかった。
 まず第一に、結婚相手は農家の子女に限られ、それ以外の女性とは結婚したくともできなかった。農家の嫁は農家の娘でなければならなかったのである。
 これは、武士・町人・農民と言う身分制の残存からもきているが、それより何より当時の技術水準のもとでの農業と言う職業が苦役的な過重労働により支えられていたことからきていた。厳しい労働に貧しい暮らしに慣れている女性でなければ農家の嫁は務まらなかったからなのである。農家の娘なら農家とはそういうものとあきらめてもくれるが、炊事洗濯、裁縫くらいしかしてこない非農家の娘にはとてもじゃないけど農家の嫁は務まらなかったのである。非農家の娘もそれがわかっているから農家の長男・跡継ぎは結婚の対象とは見ず、最初から除外しており、相手にしない。だから農家の長男も最初からあきらめており、選択肢から排除していた。そういう意味での結婚の自由は農家の長男にはなかったのである(注2)。
 第二は、前節で述べたことなのだが、結婚の相手、時期は親が決めるもので自分で自由に決めることはできなかった。否応なしにしかも早く結婚させられた。
 もちろんお見合いはあった。親類縁者や近所の人等の仲介者が未婚の男女とその両親を引き合わせ、もしも両者が気に入ったら結婚するというものだが、それは本人同士のお見合いと言うより親同士のお見合い、親がよければ結婚、さもなければ破談となり、結局は親の判断だった。
 そういう面でも婚姻の自由はなかった。いかにいやであろうとも親のいうことに従わざるを得なかった。
 これは男子のいない娘だけの家の長女も同じだった。親の決めた婿を早くもらって家をまもるしかなかった。

 それどころか、親の命令で離婚させられることすらあった。子どもができない場合、働きが悪い場合、舅姑と気が合わない場合などがそうだった。嫁や婿は家の後継ぎをつくるため、農業や家事の労働に従事させるための道具でしかなく、親の権限は絶対だったからである。そしてこれは農家の後継ぎの、また嫁や婿の宿命だった。

 でも親も辛かったのだ。次三男や娘も辛かった。みんなみんな辛かった。それを、私の生家の地域を例にして、また私の見聞きしてきたことも合わせて、もう少し見てみよう。

(注)
1.10年12月25日掲載・本稿第一部「いえの相続―宿命と特権―」(1~4段落)参照
2.11年9月14日掲載・本稿第二部「都市近郊農家の長男のかつての悩み」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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