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「家」の維持のためだった結婚



            村の結婚その昔(3)

        ☆「家」の維持のためだった結婚

 町と村の境界にあり、米づくりと野菜づくりを中心に農業のみで生計をいとなんでいた私の生家は、真冬の一時期を除いて、本当に忙しかった。労働もきつかった。それで私の父は高等小学校を卒業するとすぐに農業に従事させられた。否応なしだった(注1)。周辺の農家の長男もみんなそうだった。これは長男の宿命だった。それでも、町場に住んでいたことや大正デモクラシーの影響もあるのだろう、父は文学好きの仲間と同人誌を出して詩を書いたり(注2)、ギターを弾いたりして仲間とともに昭和初頭期の青春をそれなりに楽しんだようである(酒とたばこはやらなかったが)。しかしいつまでもそんなことをしているわけにもいかない、仲人話もいろいろ出てきた。
 たまたま生家の数軒隣りに夫婦で小学校の先生をしている家があった。そこは婿取りで、その婿さん=ご主人は生家から10㌔以上離れている純農村部の農家の生まれだった。その先生夫婦が私の父を気に入っており、ご主人の実家で農業をしている姪(後の私の母)とのお見合いを勧めたのだそうである。そのご夫婦が勧めるのであればと私の祖母が最初に母の実家に母を見に行き、気に入って本番の見合いとなったとのことである。
 母の実家でなぜそのお見合いを受けたのかしらないが、母の兄弟は上から三人が女、四人目に初めて男、そこでやむを得ず母たちは学校を卒業するとすぐ農業に従事させられた。長男はまだ学校だったが、そのうち母たちは適齢期を過ぎてしまう、そろそろ嫁に出さなければと思っていたところに、その叔父から話があったので、これ幸いと見合いの話にのったのだろう。
 どこでどのようにお見合いをしたか聞いていない。それでも一度だけ父が笑いながらこんな話をしたことがある。
 お見合いの席では顔をあげられず、母の顔をまったく見なかった。ただ、膝に置いた母の手は見えた。その手が農作業で黒く荒れていた。働き者の手だなと思って見ていただけだったと。
 その後父と母がそれぞれ祖父母にどう返事したのかは聞かなかったが、当時は親の言うことにしたがうのは当然のこと、親さえよければということになったのだろう。世話してくれた人が信頼できる人だし、その親戚・知人でもあり、家柄にも本人にも問題はなさそうだ、ということで両方の祖父母が納得、本人たちもとりたてて言うことなし(母が早死にしたので母の話は聞けなかったが、きっと同じようなものだったのだろう)、それで1935(昭10)年の早春、ともに数え23歳で結婚となったようである。
 こんなことが普通だったようで、よくそのような話を聞いた。お見合いの席で二人とも顔を見なかった、あるいは何かの拍子にちょっと見ただけ、結婚式で初めてまともに顔を見たと。それどころか本人のお見合いすらなく結婚となったなどという話すらあった。
 私の両親の場合はともかく見合いはしたが、親や仲人がいいというから結婚しただけ、二人とも純情だった、こういって笑う。まあこうやって結婚しても、二人とも家の犠牲になった、無理やりおしつけられたというわけでもなかったようだし、夫婦喧嘩もしないで〈注3〉私たちを産み育ててくれ、祖父母とも母を気に入って仲良く過ごしてきたのだからいいのだが。
 当時の農業と家事労働の厳しさから、また大家族だったことから、母は大変だったとは思うけれども、父がおむつ洗いなどをこっそり手伝うなど母の子育てを手伝い、母の実家の農作業を助ける等して母の実家ともうまくつきあってくれたこと等から、当時としては母は幸せだったのではないかと思っている。
 たった一つ、戦後の豊かな生活、楽になった農業・家事労働を体験することなく、私たちの成人を見守ることなく、敗戦の翌年に数え33歳で死んでしまった〈注4〉ことが残念なのだが。

 その母の死は、母の妹(つまり私の叔母)の一人を犠牲にした。10歳の私を上に1歳半の弟を下とする五人の子どもを残して死んでしまった母の代わりに私たちを育て、さらに農業・家事労働に従事するために、叔母は父の後妻として嫁に来させられたのである。
 でも、当時はそれが社会常識、そうしなかったら母方は世間からの非難ごうごうだし、また私の家の事情もわかるので、母方の祖父母もそうさせざるを得なかったのだろう。
 叔母がそれに対してどういう態度をとったか、私は知らない。きっと否応なしに承諾させられたのだろう。ともかく私たち甥姪と私の生家の犠牲になって私たちの母になってくれた。
 父は泣いて再婚に抵抗した、私はこのことを知っている。前に書いたように(注5)、死んだ妻に申し訳ない、義妹を犠牲にするわけにはいかないと父が泣いて拒否する声を私は聞いているからである。しかしそうしたらもう生家は崩壊だ。結局了承させられた。
 こうして叔母は私の生家を維持する(農業と家事育児をする)ための労働力として父と結婚し、私たちの母となってくれた。今のように農業・家事労働の省力化が進んでいない時代、保育所などの社会福祉が充実していない時代、こうした個人の意思を無視した結婚が当然視されていたのである。
 意思をふみにじった祖父母が、親戚縁者が、近隣の雰囲気が悪いわけでも何でもない、そうしなければ家族が生きていけないのでやむを得ず強いるしかなかった、個人の意思を犠牲にするしかなかったのである。その犠牲の上に私たちは一人前に育ったのだが。

 この逆の例もあった。長男が死んでその嫁と幼い子どもが残された場合は、未婚の弟がその嫁と再婚し、家を継いで子どもを育て、家を守ることが普通だった。みんな生きていくためにはそうせざるを得なかったのである。
 その実例については前に紹介した〈注6〉が、とくに戦中戦後は戦死者が多数出たことからこうした事例は多かった。そしてそれが悲劇をもたらしたこともあった。

 家内の友人で近所に住むIさんの話である。
 戦後すぐのこと、山陽地方の農村部にある実家にお父さんの戦死の公報が役場から届いた。そのころは遺骨などまともに還っては来ない時期、遺骨なしで葬式をあげるよりほかなかった。
 問題は遺されたIさんたち幼い子ども二人とお母さんだった。実家に三人を帰すわけにもいかないし、高齢化しつつある祖父母とお母さんだけでは当時の手労働段階の農業をやっていけない。そこで、慣例に倣い、お父さんの独身の弟、つまり子どもたちにとっての叔父さんが、お母さんと結婚して家を継ぐことになった。それから二年たって弟も生まれた。
 何ということか、そこにお父さんが復員して帰ってきた。戦死の公報は間違いで生きていたのだ。大騒ぎになった、喜びたいところだけど喜ぶどころではなかった。
 お父さんも事の経過を聞いて驚いた。もう少し再婚を待っていてくれればよかったのにとも思うが、事情もよくわかる、生きて帰ってきてよかったのかどうか、心境は複雑だったろう。もちろんお母さん、弟さんをはじめみんなも心は千々に乱れた。頭を抱えた。
 事情のわかったお父さんは、何も言わずにその夜遅く家を出て、近くの親戚の家に身を寄せた。両方ともに眠れぬ夜を過ごしたことだろう。
 その後いろいろ話し合った。結局は、もうもとに戻すわけにはいかない、現状を認めるよりほかないということになった。そしてお父さんは家から出てよそに働き口を求めることにした。やがて嫁さんを世話する人があって結婚し、子どもも生まれた。
 こうしてIさんは、本当のお父さんとお母さんの子ども二人、新しいお父さん(つまりIさんからすると叔父さん)とお母さんの子ども一人、さらに本当のお父さんと新しい奥さん(Iさんからするとまったくの他人)の子ども二人の、計五人がIさんと血のつながった兄弟姉妹となった。もちろん住む場所は二ヶ所である。しかし、子どもたちはおたがい本当の兄弟のように両方の家を行ったり来たり、それぞれの両親も仲良く過ごしてきた。ただ一つ困るのはこの五人兄弟姉妹の関係・血筋を他人に説明するのが複雑、面倒なことだったとIさんは笑う。
 みんな結婚してあちこちに住むようになり、孫がいる年齢にもなったが、今も前と同じように仲良く付き合っているとのことである。

 このIさんのような問題はあちこちで起きた。そして自殺、離婚等々、悲劇に終った事例も多々あった。これはまさにあのむごい戦争のおかげだったのだが、かつては低位生産力段階の農業のもとでの生産単位としての家の存続のための手段として結婚が位置づけられてきた(そうせざるを得なかった)こともその一因だったのである。

(注)
1.10年12月25日掲載・本稿第一部「いえの相続」(2~4段落)参照
2.14年7月28日掲載・本稿第七部「農村青年の同人誌」参照
3.たった一度だけ見たことがあるのだが、このことについては本稿の下記掲載記事で触れている。
  11年1月25日掲載・本稿第一部「湯治・里帰り」(6~7段落)
4.10年12月23日掲載・本稿第一部「女性参政権を行使できなかった母」参照
5.10年12月24日掲載・本稿第一部「男の涙」(1~2段落)参照
6.     同      上    「男の涙」(8段落)頁参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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