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貧しい食と厳しい労働(2) 



            ☆米をつくっても米が食べられない農家


 米の多収地帯に育った私は米を食べないむらがあることなど考えもしなかった。ともかく毎日米を食べていた。ただし母の実家は養蚕が中心で水田が少なかったので麦ご飯を食べていた。おいしくないという人もいるが、幼いころの私はご飯の中に入っているちょっとだけ異質の麦を一粒ずつ前歯で噛んで食べるのが何ともいえず好きだった。
 戦時中もたまにすいとんや糧飯を食べる程度で、白米が中心だった。えんどう豆を入れて塩味をつけた糧飯などは食べられず、箸で取り除いてご飯だけを食べた。家内は食糧不足時代に配給のさつまいもやとうもろこしの粉も主食にしたというが、私にはその経験はない。米という点では恵まれていた。
 それでもご飯は大切なものだった。食事するときは必ず正座で、あぐらをかくのは家長の祖父だけ、どんな姿勢でも許されるのは幼児だけだった。だから今でも私はご飯の時だけは正座である。立って食べたり、歩きながら食べたりするのは乞食と同じだ、行儀が悪いと禁じられた。茶碗の縁を箸で叩いて音を出して遊ぶことはもちろん許されなかった。ご飯を口に含みながらしゃべるな、ご飯をこぼすと目が見えなくなると注意され、ご飯を残すと残すほどのご飯を盛ってもらうなと叱られ、茶碗に一粒でもご飯が残っていると怒られた。
 このように米を大事に食べているのに、そして陸羽一三二号などのうまい米もつくっていたのに、おいしい米は食べられなかった。米の検査で落ちて供出してもほんとに安くしか売れない米、この「二番米」と言っていた屑米のようなまずい米をまず食べた。
 新米の季節になっても、おいしい米つまり新米は食べなかった。
 生家のいろりのある部屋の天井は非常に高かった。この部屋だけ天井板がなく、屋根の太い梁が直接見える。そこの横の梁一本に五、六俵の米が縄で吊されている。何かあったときの蓄え、つまり備蓄米である。稲刈りが終わり、豊作でもう備蓄しておく必要性がないということがわかると、その米を下ろして食べ始める。新米を食べるのはその米がなくなってからだ。だから正月すぎまで古くてあまりおいしくない米を食べることになる。そして古米を食べ終わると、また新米が天井に吊される。この保存法は、ネズミと湿気の対策からきているようである。
 しかし早々と新米を食べる家もある。備蓄している米がない農家、つまり備蓄するだけのゆとりのない農家がそうである。だから秋にごはんのうまい家、つまり新米を早く食べる家は貧乏だと言われていた。

 戦前の小作農家などはうまい新米どころか米をまともに食べることもできなかった。米は食料と言うよりまず小作料だったからである。何しろ収量の半分が小作料、しかも当時の収量は低いので、地主に小作料を納めると本当にわずかの米しか残らない。当然米以外のものを入れて食べることになる。「おしん」のテレビに出てきた大根飯などがそうである。とてもじゃないがまずくて食えたものではない。戦後の食糧不足時代、都市住民のなかに大根の塩汁のなかにご飯が浮いているものを代用食とした、とても食えたものではなかったというような人もいる。しかし食糧不足時代でもないのに、こんな代用食を何十年、何百年と日常の主食とせざるを得なかった農民もいたのである。ともかく食えるものはすべて食べて腹を満たすより外なかった。
 問題は冬である。雪でおおわれた田畑、林野には食べられるものは一切ない。保存していた野菜なども尽きてくる。米などはもちろんない。小作料を払うと、旧の正月までもたせるのがやっとの量しか残らないからだ。腹が空かないように、寒さを感じないように、家を閉め切ってぼろ布団にくるまって寝ているしかない。近くにそんな農家があった。家族の顔はげっそりやつれて土色である。稲ワラに土を混ぜて食べて腹一杯にしているからだなどと噂する人もいた。もちろん本当かどうかはわからない。しかしどんなことをしてでもともかく冬をもたせればいい。春になればともかく山野に食べるものはある。初夏になればいろんな作物が収穫できる。米は食わなくとも生きていける。
 この例は極端にしても、多くの農家は食に困っていた。とりわけ小作農の生活は悲惨だった。米どころに住みながら、米をつくっていながら、米が食べられなかったのである。
 そもそも人間としても認められていなかった。小作人ごときは地主の座敷に上がることも座ることも許されなかった。地主の家に手伝いに来いといわれればどんなに忙しくても行かなければならず、出された昼飯は土間で立ち膝で食べなければならなかった。食べ終わると「ごっつぉうさまでしたっす(ごちそうさまでした)」と額を土につけておじぎをする。若い頃この姿を見たことのある私の父は小作人には絶対になりたくない、そのためにどんなことがあってもいまの自作地をまもっていこうと考えたという。
 大学院時代、戦前の小作争議の調査に入ったとき、山形県小田島村(現・村山市)の農民組合のかつての幹部が次のような話をしてくれた。社会変革の意欲に燃えた旧制山形高等学校の学生が農民組合を組織しようとオルグに来た。しかし小作農は、高率高額小作料と高利の借金で地主から苦しめられていたにもかかわらず、その呼びかけに応えて闘いに立ち上がろうとはしなかった。それにもこりず何回も訪ねてくる。ある時昼飯の時間になったので飯を出した。それは、空きっ腹を満たすために何もかもぶちこんで水でふやかした雑炊だった。山高生は平然とそれをごちそうになった。小作人たちは感激して涙を流した。生まれも育ちも違う将来の超エリートが、身分が違う貧乏小作人のおれたちと同じ飯を食べてくれた、同じ人間として扱ってくれたと。この人たちの言うことなら信頼してもいい、おれたちも人間なんだということで小作争議に立ち上がったというのである。

 凶作の時は小作農だけでなくほとんどの農家が食に困った。父に聞いたら、凶作のときにはセミやゲンゴロウ、ガム(われわれはそう読んでいたが、和名ではガムシといい、ゲンゴロウに似た三㌢くらいの体長の昆虫)などを捕まえて羽をとり、炒めて食べた農家があったらしい。父も子どもの時セミを炒めて食べたことがあるという。そんなにまずくはなかった、ただ味も素っ気もなかったと笑っていた。明治末の凶作のときには、松の樹皮と稲ワラを混ぜ、何日間も臼でついて粉にし、それを団子にしたもち(「マツカワモチ」と言ったような気がするが、正確には思い出せない)を補充食として食べたと祖父から聞いたことがある。
 地域による差はあれ、程度の差はあれ、ともかくかつての農家の多くは食べものをつくっていながら食べられなかった。そして絶えず飢えにさらされていたのである。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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