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かつての仲人と結納



            村の結婚その昔(5)

           ☆かつての仲人と結納

 その昔は親が子どもの結婚相手を決めたものだという話をこれまでしてきたが、肝心のそのふさわしい相手を自分で探して来るのはいくら親でも容易なことではない。ましてやその昔は交通・通信条件からして交際範囲は狭く、その範囲内に自分の息子もしくは娘に適する年齢、性格、家柄等々の相手がいるとは限らない。範囲をひろげればいいかもしれないが、捜し歩く伝手もそんなになければ時間的経済的ゆとりもあるわけはない。それで親戚とか知人、隣近所(町場では勤め先の同僚・先輩や商売仲間もあった)などに頼んで知り合いに適当な人がいないか探してもらうしかなくなる。
 それはお互い様、そんなことを頼まれなくとも知人や親戚、隣近所は、あそこの家の息子はそろそろ年頃だということを知ると、自分の知り合いや親戚に適当な娘がいないか考えてくれる。自分の息子や娘の時に同じことを頼まなければならないこともあるからだ。
 たまたま自分の親戚にあるいは近くに娘がおり、そろそろ適齢期、あれならぴったりではないか、家柄も類似しているとなれば、双方に話を持ち込む。双方の親がそういう条件の人なら会ってみようということになれば、紹介をした人がお見合いの席を設け、双方の両親と本人とが顔合わせをする。それで双方の両親が気に入ればその紹介をした人が仲人となって結納を取り交わし、結婚式・結婚披露宴となる。これがかつては普通だった。もちろん、こうやって縁を結んでもらった両家は仲人に結納のお金の何割かをお礼として払うという金銭関係はあったが、自分が仲人をするときには逆に受け取るので、それはお互い様、損得勘定ではなかった。
 以前は親戚とか近隣とかの関係が非常に強く、お世話したりされたり、お互いさまという関係にあったのでこうしたことが可能だったのだが、前に紹介させてもらった私の両親の場合などはその典型例で、母の親戚で父の隣近所という関係にある人が仲人となってくれて結ばれたものだった。

 もちろん、すべてがそう都合よくことが運ぶわけでない。うまく見つけてもらえない場合、なかなか決まらない場合もある。そこに成立するのが、仲人に対する礼金を目的にして未婚男女を探し、その相手探しをしてやり、見合いをさせる商売である。生家の近所にこういう仲人をして小遣い稼ぎをしている世話好きのお婆さんがいるという話を聞いたことがあるが、今の結婚相談所の前身ということになろう。なお、こうやって決まった場合には、結納や結婚式のときの仲人は別途知り合い等に頼むこともあったようである。今でいう「頼まれ仲人」ということになろうが、礼金は実質と頼まれの双方に払われるので二倍になる。

 さて、見合いで双方合意となれば結婚の約束を取り交わす「結納」の儀式が行われる。新郎の側が仲人といっしょに婚約成立のしるしにと結納品(結納金)を新婦の家に持っていくのだが、私の生家の地域では、新郎側の両親ではなくて兄弟とかの近親者がその名代として仲人といっしょに持っていくことになっていた。
 私もその名代を務めたことがあるが、戦後数年して、それも中学二年のときが最初だった。父の末弟、つまり私の叔父=前に何度か本稿に登場したM叔父(注)の結納を持っていく役割を果たさせられたのである。なぜ私だったのかわからないが、それからも何度かさせられている。
 さて、M叔父の場合であるが、勤め先の上司の紹介で見合いをし、双方気に入って結納となり、私は祖父母と父に言われて何が何だかわからずにとにかく仲人さん(紹介してくれた上司の方)ご夫婦について町の中心部にあった後に叔母となる人の家に行った。仲人さんの言うがままに、いっしょに頭をさげ、結納品を渡し、それからそのお返しをもらう、そして終ってからの宴席で出されたご馳走をおいしくいただいて帰ってきただけなのだが。なお、結納の席は相手方の両親と私、そしてお仲人夫婦だけだったと記憶している。宴席になったとき、それに相手方の親族三人(だったと思う)が加わり、そこに叔父の許嫁になったばかりの将来の嫁さんが挨拶とお酌に来ただけだった。もちろん私は酒はだめでジュース、当時としてはまだ珍しく、うまかった。そのとき私は将来叔母となる人を初めて見たのだが、家に帰ったときはちょうど夕ご飯どき、家族のみんなからお相手はどうだったか聞かれ、「うん、まあまあだな」と答えて大笑いされ、M叔父が苦笑いしていたあのときの和やかな情景がなぜかいまだに記憶に強く残っている。
 なお、M叔父の場合は農家の末っ子ではあるが勤め人であり、片や嫁さんは非農家の娘、しかも戦後すぐのことなので、その昔の農家の間での結納とはちょっと違うかもしれない。
 ついでにもう一つ、私の祖父母つまりM叔父の両親はあまり賛成ではなかったらしい。叔母の身体が弱いという話があったからだ。実際に病気がちだったらしい。しかしM叔父は一目惚れしたらしく(叔母もそうだったらしい)、反対を押し切ったとのこと、そういうことからすると見合い結婚と言うより「恋愛結婚」(当時の流行り言葉、このことについては後に述べる)に近かったようである。それが結納の形式や金額に影響を与えたかどうかわからない。聞いておけばよかったと思うが、もう後の祭りである。

 ところで、このときの結納金がいくらだったのか、もちろん私は知る由もなかったのだが、さまざまな形の派手派手で大きなのし袋を渡したことだけ憶えている。本来から言うと結納金とは花嫁衣装代とのこと、地域によってはかなり多額の結納金が常識だったとかいろんな話を聞くが、実際にどうだったのかよくわからない。
 また、結納の式の終わりころにこちらに対するお返しがあり、それを大きな風呂敷に包んで家に持ち帰ったのは覚えているが、そこに何が入っていたかまったく覚えていない。

 この結納から何ヶ月かして結婚式となるわけだが、こうやって婚約がととのっても、一般的には婚約者の二人がその後とくに会うわけでもなし、人柄どころか顔も見ないで結婚式を迎えるというのが普通だったようである。ただし、今述べたM叔父の場合は、戦後民主化のころ、しかも町場、さらにお互い気に入っていたせいもあって後に言うおデートを何回もしていた、私もそのデートにつきあって叔母の実家まで連れて行ってもらったこともある。

 ちょっとここで、最近の私事を語ることを、お許し願いたい。
 ちょうどこの草稿・その昔の村の結婚についての構想を練り、M叔父の結納のことも書こうと考えていたこの一月末のことである。何という偶然か、このM叔父の嫁さん、私たちがK叔母ちゃんと呼んでいた叔母が亡くなったとの連絡が山形の生家から入った。M叔父は30年前に亡くなった(職場の野球部の選手で、都市対抗野球で県代表となり、東京の全国大会に出るくらい身体が頑丈だったのに)のだが、身体の弱かったK叔母は娘夫婦と孫に囲まれて90歳を過ぎるまで長生きし、まさに大往生したのである。ちょうどその時期にM叔父・K叔母の結納のことを思い出していたことになるのだがら、偶然とはいえ不思議な縁を感じる。
 早速その葬儀と法要のために山形に行き、さらについ先日(四月末)その百箇日の法要でまた行ってきた。そのとき集まった親戚縁者を見まわしたときに驚いた、考えてみたらこのなかでK叔母に最も早く出会ったのは私ではないかと。何しろ私はお見合いのときに会っており、たとえば娘たちは直接血はつながっていても会ったのは産まれてから、見まわしたらみんなM叔父・K叔母の結婚式以降に二人に会っている人たちだけなのである。K叔母の妹は私より一歳年上なのだが、今は遠くに住んでいるうえに身体の調子から来られないとのこと、後はみんな私より年齢は下、その法要の席では私が最長老だった。私もそんな年齢になってしまったのである。
 当然のことながら、そのお見合いを知っている人はもういない。私だけになってしまった。私がいなくなればだれもそのお見合いを見たものがいなくなる(K叔母の妹は見合いの日に家にいたので覚えてはいるだろうが、その見合いの席は見ていない)。こうやって少しずつ世の中からその人が生きていたころの事実を証明する人がいなくなって事実は少しずつ消えていく。やがてその人が存在していたことすら消えていく、何かものすごく寂しく感じながら、法要の後にだされたお酒の酔いを醒ましながら、家内といっしょに夜汽車に揺られて帰宅した。四月末なのに寒い夜だった。

 さて、結納からいよいよ結婚式となるのだが、私の子どものころ(結婚披露宴どころではなかった敗戦前後の混乱期1944~46年の記憶はあまりないのでその時期を除く)の記憶をたどって述べてみよう。

(注)
 M叔父は下記掲載記事をはじめ何度か本稿で登場している。
  11年2月7日掲載・本稿第一部「もんぺ姿、人の取り上げ」(4段落)
  11年2月14日掲載・本稿第一部「『里の秋』」(1段落)
  11年2月22日掲載・本稿第一部「復刊少年倶楽部と野球少年」(4段落)
  12年6月20日掲載・本稿第四部「蓄音機からCDへ」(1~3段落)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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