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大変だった結婚披露宴



            村の結婚その昔(7)

          ☆大変だった結婚披露宴

 結婚披露宴(私の生家の地域では「お振舞い」と言ったものだが)、これは結婚式と同様に新郎の自宅で行われた。
 農家の屋敷だから敷地は相対的に広いが、私の近隣の家々の場合は何しろ町場にあるため間口は狭く(注)、座敷は押し入れや縁側を除いて8畳が限度、その二間から三間のふすまを外しての宴会は20人から30人の客が限度だった(地主などの家は別にして)。
 一方、近隣や親戚縁者とのつきあい、義理人情を大事にしなければ生きていけない時代、お呼ばれしたらお呼びしなければならなかった時代、招待すべき人数は多い。
 そこで、お客を何回かに分けてご招待することになる。

 まず第一回目の披露宴の客は、結婚式に付き添ってきた新婦の両親と親族、新郎の本家や近い親類、近隣の主だった人、お偉方、新郎・戸主のとくに義理のある人などである。
 三々九度が終ったらすぐ、近所のお手伝いの人が座敷を片付けて、コの字に座布団を敷き、 新郎の家の指示に従って朝から煮炊きしていた料理を盛り付けたお膳を台所から運んでくる。なお、客用のお膳や食器はこうした祝儀や不祝儀、祭礼などのときのために一式そろえてあった(ない場合は本家などから借りたようである)。
 中央にはさきほどと同様に新郎新婦、仲人、それを挟んで客は両側の指示された場所に座る。
 全員着席すると、新郎の父が末席から挨拶をし、どうぞごゆっくりで締める。するとすぐに徳利が運ばれ、新郎の近い親族などがそれをもってお酌してまわる。乾杯とか客による祝いの言葉などは当時はまったくなかった。ある程度酒が回ったころ、新婦が新郎の母〈姑〉に連れられて客に一人一人あいさつし、お酌をしてまわる。
 それが終ったころ(ではなかったろうか)、客の中の一人が「そろそろお謡いを、ご唱和お願いするっす(します)」とみんなに声をかける。するとあれだけざわめいていた席がぴたっと静かになり、みんな正座をする。そして今声をかけた人が謡い始める。
  「高砂や この浦舟に 帆をあげて」(だったと思う)、
 それに続けてみんなで斉唱する、
  「月もろともに 出で汐の……」。
 謡い終る、「ありがどさまでしたっす」、この言葉でまた座が乱れ、新郎のところに酒を注ぎに行ったり、知り合いのところに行って酒を注いだりで、座は乱れてくる。しかし、みんな長居はしない。次の宴席が待っていることを知っているからだ。1時間半くらい過ぎると、お赤飯を食べ、お膳の上の料理の食べ残し等を包んでもらい、引き出物(砂糖一箱もしくは鯛や松竹梅などめでたいものをかたどった蒲鉾が普通だった)を持ち、主人など家族に挨拶をして引き上げる。閉会の挨拶も何もないが、ほぼ終わりかけたころ、お手伝いの人たちがいっせいにお膳を片付け始める。
 これからがまた大変だ、二回目の宴会が夕方から始まるからだ。洗い物をするなど後片付けをした後、準備していた料理をまたお膳に盛り付ける。

 夕方の二回目は、隣近所や親の友人、知人が中心となる。後の手順は第一回目と同じだ。たまにべろんべろんになる人もいるが、みんなで何とか連れ帰り、お手伝いの人が一斉に後片付けをしてそれぞれの家に帰る。
 それぞれの家では子どもたちが結婚式の料理の残りのお包みや引き出物を楽しみに待つ。めったに食べられない料理をつつき、引き出物の蒲鉾の色がちょっとどぎつ過ぎるなどと悪口を言いながら食べ、残った蒲鉾は煮つけにされて次の日のおかずとなり、子どもたちの学校の弁当をかざる。

 翌日、式の当日よりも若干遅く、前日と同じく近所の女子衆(おなごしゆう)がお手伝いに来る。その日には花嫁さんもたすき掛けで朝早くから掃除等の手伝いをする。
 お昼近く、お使いをもらっていた(=ご招待を受けていた)遠くの親戚や義理のある知り合いが集まって来て、三回目の宴会となる。新婚の二人はやはり中央に座らされる。遠くから来た客はあまり酒を飲まない。当時は徒歩の時代だったからである。だからわりと早く終わる。

 3時ころから、前日招かれなかった近隣の人や知人などでの四回目の宴会が始まる。

 その夜は五回目、新郎の友人や近所の若い衆の宴会である。
 私も、農家の長男で小中学校と同級だった友人の結婚式の祝宴にお呼ばれしたことがある。5時半開会ということで行こうとしたら、父から止められた。1時間は遅れていくものだ、あまり早く行くと、早く飲みたいのだろう、「えやす(卑しい人)」だと思われるというのである。そこで待つことにしたのだが、やはり遅れては困ると思って定刻より1時間過ぎてから家に着いたら、来ているのは私と同級生の二人だけ、待つ間何とも居心地が悪かった。
 そのうちぽつりぽつり来初め、さらに30分くらい過ぎたら開宴となった。近所の若い衆・農家の長男が多いので私も知っている顔がほとんど、いい気持になって飲んでいたら、私の隣に座った最年長の先輩が「そろそろお謡いを、ご唱和お願いするっす」ときたもんだ。困ってしまった、「はい」とうなずいたものの、実は私はまったく謡えないのである。私といっしょに来た同級生も同じである。農家の若者はみんな謡を習っている〈好き嫌いとかうまい下手とかは別、これは農家の長男の必修科目、常識だった〉ので二節目から一斉に謡い始めた。私も口を開かないわけにいかない、適当に口を開いて唸り声を出し、いっしょに謡っているかのごとく見せかけるしかなかった。
 やがて花嫁が姑に連れられて酒を注ぎに来る。それが終るころから座が乱れはじめ、こちらが花婿のところに行って酒を注ぐ。しばらくたってぽつりぽつり引き揚げ始めたので、私も立ち上がったらかなり酔っぱらっており、夜道をふらふら、何とか家にたどり着いたものだった。
 花婿の家のこの日の宴会はこれで終わりである。後は近所の手伝いの人たちが中心となってまた後片付けだ。

 第三日目、この日は近所の人の手伝いはない。花嫁は平常の着物に戻り、今日は花嫁も含めて家族全員で最後の宴会の準備だ。この日は、この二日間手伝いに来てくれた女子衆(おなごしゆ)に対する御礼のご接待なのである。お昼にみんな集まってきて家長からの御礼の言葉を受けた後ごちそうになり(酒は出されるが女子衆だからあまり飲まない)、引き出物等をもらって帰る。
 これで婚礼の行事は一切終わり、縁側に飾ってあった箪笥等の嫁入り道具を片付け、解放していた縁側の戸も閉める。そして家族ぐるみで後片付けだ。

 このように三日間かかるのが私の生家の近くの地域の一般的な婚礼だったが、地主や旧家などの家の結婚式は招待客の数、宴会の回数はさらに多くて盛大であり〈でも三日間で終えたと記憶している〉、逆に零細小作農などの家はぐっと簡略だった。

 披露宴の終わった翌日、姑は花嫁を連れて近所の家々を一軒一軒回り、花嫁を紹介し、よろしくお願いしますと挨拶をして歩く。歩きながら姑はそれぞれの家の特徴や関係等々、花嫁に説明をする。
 これを最後にして近所は静かになり、平常に戻る。
 ときどき子どもたちが遊びの途中でふとこの前のにぎやかだった結婚式を思い出し、みんなでいっせいに「むがっさりよう」と叫ぶ。それを聞いた大人はあの非日常の日を思い出したり、自分と思い比べたり等々、いろんな感慨にふけりながら日常のきつい仕事にいそしんだものだった。

 ともかく結婚式は大変だった。ものいりも大変だった。もちろんご祝儀はいただくが、当然大赤字である。でもこれはやらないわけにはいかない。伝統的な形式を破るわけにはいかない。面子もあれば義理もある。
 これは嫁を迎える方だけではない、嫁に出す方はさらに大変だった。

(注) 11年1月13日掲載・本稿第一部「『失われゆく民家風景』」(4段落)、
   17年5月22日掲載・本稿第九部「私の育った戦前の混住地域」(2段落)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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