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娘三人持てば……



            村の結婚その昔(8)

            ☆娘三人持てば……

 新婦は、よその家に新しく入り、その家族の一員として毎日を過ごすようになるのだから、日常生活で自分の必要とする品々を婚家に持っていくことが必要となる。
 親としては、娘が婚家で不自由な思いをしないように、婚家に持っていく品々、いわゆる嫁入り道具を準備してやらなければならない。
 それくらい自分で稼げと言っても、今と違って当時は娘に就職口などきわめて少なく、家で農作業や家事に従事して食べていただだけ、小遣いもろくにもらえない生活を送ってきているので、それは無理である。嫁入り先から結納金をもらっているといっても、半返しはしなければならないし、そもそも結納金は花嫁衣装代でしかない。そうなるとやはり嫁の親が嫁入り道具費を出してやらなければならないことになる。

 1935(昭10)年春に純農村部から都市近郊農家に嫁いできた私の生母も嫁入り道具を親に準備してもらった。総桐の箪笥、鏡台、針箱、着物類、布団だったようである。私の子どもの頃まだ新しかったことから類推しているだけなのだが。白木の桐の箪笥はいい匂いがしていた。なお、桐箪笥の桐は母が生まれたときに裏の畑のわきに植えたものを切ってつくってもらったものらしい〈どこの家でも娘が生まれるとその嫁入り道具の箪笥をつくるために桐の木を植えたとのことだった〉
 まあこんな程度だから豪勢な嫁入り道具とはいえず、人並み程度だったのではなかろうか。高等小学校卒業以来約10年、小遣いもろくにもらえず家のために黙々と農作業に家事に従事してきたのだから、嫁入り道具くらいは退職金として親から当然もらっていいとも思うのだが。
 とは言っても、昭和恐慌による繭価低落の影響の残る養蚕が中心で若干の水田があるだけ、収入は少ないところに家格だけは上なものだから出費は多く、しかも娘が多い家だったから、決して豊かな暮らしとは言えなかった実家としては大変な出費だったろうと思う。

 こうした準備をして迎えた結婚式当日、親戚縁者が集まって花嫁衣装を身にまとった娘を送り出すお振舞まいが行なわれ、出発の時間が来ると仲人や両親に伴われて集落のはずれまで歩く。隣り近所の人たちはみんな外に出て、花嫁姿を見、「○○ちゃん、きれいだよ」、「元気でな」等々、声をかけて見送る。花嫁はそれに軽く頭を下げ、お別れの挨拶をする。そして嫁入り道具とともに牛馬車あるいは馬、船等々に乗り、婚家に向かう。
 なお、結婚式当日花婿の家から花嫁をお迎えに出向くという地域があるという話を聞いたことがあるが、私の地域ではそういう習慣はなかったように思う。

 婚家の近くに着いてから結婚式・披露宴までの話は先ほどしたが、その期間中、新郎の家の座敷の前の縁側は全部開かれ、式はもちろん宴席も外から見えるようになっている。だから、縁側におかれた箪笥や長持ちなど花嫁が持ってきた嫁入り道具は、これもまたすべて見えるようになっている。どんなものを持ってきたのか、客はもちろん隣近所の人もみんな見られるようにしてあるのである。地域によっては、結婚式後何日間か近所の人を家の中に入れて嫁入り道具をすぐ目の前で見せ、箪笥や長持ちを開けて中に何が入っているかまで見せるところもあったという(それを聞いたときにはそこまでやるのかと驚いたものだった)。
 当然それは隣近所の家でのうわさ話、茶飲み話の種になる。もしもそれがたいした道具を持ってきたなどといううわさ話だったらいい。これは迎えた方、とくに舅姑の自慢の種となるからだ。逆に、ろくなものを持ってこなかった、よっぽど貧乏な家からもらったのか、何か事情があったのかなどとうわさが立ったら大変だ。この嫁は家に恥をかかせたと舅姑の嫁いびりの材料にされたら困る。それでは娘がかわいそうだ。そこでどんな無理をしても、借金をしても嫁入り道具をそろえてやることになる。

 それだけでも大変なところに、子どもが生まれたりしたらまた出費がかさむ。長男が産まれたら、ご祝儀の他に鯉のぼりや武者人形をお祝いとして贈らなければならない。長女が生まれたらひな人形だ。これまた時期になると座敷に飾られ、五月にはへんぽんと空にひるがえるものだから、近所の人にはすぐわかり、またうわさになる。だから、借金してでも贈らなければならなくなる。
 なお、長男の私の五月節句(旧暦でやられたが)には新しい鯉のぼりがあげられ、鍾馗さまの人形が床の間に飾られ、すぐ下の妹のひな祭りには古い雛壇と並んで真新しいお雛様が飾られたが、それが母の実家からのお祝いだったのか生家の祖父母が買ってくれたのか、わからない。聞いておけばよかったと今になって後悔している。

 よく祖母たちが茶飲み話で近所や親戚の嫁舅の噂話をしていた。そしてあそこの家の嫁いびりは嫁が持ってくるべきものを持たされてこなかったかららしいなどの話が、隣の部屋で寝転んで友だちから借りた本を読んでいる私の耳に聞こえてきたものだった。 そのうち、「娘三人いれば 身上をつぶす」、「娘三人持てば かまどの灰までなくなる」などということわざがあることを私も知るようになった。それも私の生まれ育った地域ばかりでなく全国にあり、とくに名古屋の結婚式はそのど派手さで有名だとか、北陸の嫁入り道具はすごいとかの話も聞くようになってきた。
 私の母の実家などは、娘五人もいたのだから、名古屋や北陸だったら破産だったろう。

 とは言っても、潰すような身上もない貧しい家ではいくら娘にいろいろやってあげたいと思ってもできなかった。婚家で肩身の狭い思いをし、いろいろ苦労をしているのではなかろうか、本当に申し訳ないといつも胸を痛めているしかなかった。
 これは嫁をもらった側の貧しい家でもそうだった。地主様ほどでなくともいい、せめて人並みの結婚式くらいあげてやりたかった。 人に見られて恥ずかしくない嫁入り道具、そして結婚披露宴、これは貧しい農家の悲願だった。その望みは、戦後の農地改革、食料増産政策、農業生産力の向上によってかなえられたのだが、それはまた後で述べることにする。

 なお、こうして嫁入りした女性、それが嫁入り先でどういう地位におかれ、どういう暮らしをしてきたのか、それがどう変わってきたのか等については本稿の第一部をはじめあちこちで触れてきた(注)ので、ここでは省略させていただく。

(注) 10年12月18日掲載・本稿第一部「跡取りを産む道具としての嫁」、
   10年12月20日掲載・本稿第一部「労働力としての嫁」、
   10年12月21日掲載・本稿第一部「花嫁の涙」、
   10年12月22日掲載・本稿第一部「 労働力としての嫁」、
   10年12月23日掲載・本稿第一部「無権利の女性」、
   11年6月3日掲載・本稿第二部「三種の神器、格差の縮小、中流意識」(1段落)、
   11年6月6日掲載・本稿第二部「変わらない農村女性」、
   11年9月12日掲載・本稿第二部「嫁不足の深刻化」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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