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様代わりした結婚式



            村の結婚その昔(10)

           ☆様代わりした結婚式

 嫁入り道具、前々回述べたように、親は借金をしてでも娘にもたせてやろうとした。婚家で娘が肩身の狭い思いをしないようにするためにも必要不可欠だった。にもかかわらず金がなくてそれができない農家もかなりあった。
 しかし、戦後復興が進み、農地改革や食糧増産政策の成果がようやく出始めた1950年前後ころから、ほとんどの農家が人並みの嫁入り道具を持たせて娘を嫁にやることができるようになった。
 この道具の中に必ず入るようになったのがミシンだった。昔からの箪笥や衣類に加えて足踏み式のミシンが和箪笥などと並んで誇らしげに婚家の縁側に並べられたのである。
 やがて洋服箪笥が加わる等々、さまざまな嫁入り道具を昔のように人が担いでではなくてトラックに山のように積み、紅白の幔幕で形だけ覆ってこれ見よがしに婚家に運び込まれ、麗々しく並べられるようになる等々、嫁入り道具は競うがごとく豪勢になっていった。
 そして花嫁は、仲人、両親、親族とともに何台ものタクシーを連ねて花婿の家での結婚式に向かった。

 それに対応するかのごとく、花婿の家での結婚式・披露宴も派手になってきた。子どものためということももちろんあったろうが、かつて地主様がやっていた、一度はやってみたいと思って見ていた結婚式、披露宴に近づけたいという気持ちもあったのではなかろうか。
 ただし、式は必ず婚家の自宅でやった。式の形式も地域の伝統に則っていた。だから今のようにホテルの「虚式」に収奪されることはなかった。しかし、いくら自分の家でやるといってもやはり金はかかった。家の者も手伝いの人も大変だった。地域にもよるが、三日三晩も披露宴が続くというのが普通だったからである。しかもそのご馳走や引き出物は豪勢になっていった。さらには結婚式のために家屋を建て直す家すらあった。
 あまりにもど派手になった結婚式、それに対応してのご祝儀相場の上昇、さらには多額の借金を抱える家すら出てくる、これが社会的な問題となってきた。都市部でもそうした傾向がみられるようになってきたこともあったからである。そればかりではなかった。葬儀も派手になり、葬儀の香典、香典返しの水準も上昇していった。世の中平和になったためなどと喜んでばかりいられないような事態まで見られるようになった。

 こうしたなかで起きたのが、冠婚葬祭の簡素化、古い因習にもとづく虚礼の廃止などによって生活の合理化を図ろうとする婦人会や青年団の全国的な運動だった。
 このような運動を展開しなければならないほどの虚礼の流行には問題があったが、ともかくこんなことができるほど世の中は落ち着き、ゆとりも出てきたということを示すものでもあり、やはり喜ぶべき現象だったといってよいであろう。もちろんこんな虚礼は一時的なものとして終わらさなければならなかったものだが。そしてそうした虚礼の見直しの動きも各地に起きてきた。
 時の内閣はこの動きを利用して、衣食住の生活様式を改善し、虚礼を廃して貯蓄を奨励し、家庭生活を生産性向上の基盤とし、国家を再建しようとする「新生活運動」を提唱し、全国的に展開した。
 その先頭に立たされたのが、農村部では農業改良普及所、とくに生活改良普及員だった。こうしたなかで、結婚式はいわゆるご祝儀ではなくて会費制にして公民館等でやろうとか、香典はこの額に統一してお返しはなしにしようとか、相談して決める地域もでてきた。しかし、そうした会費制結婚式などが新聞記事になるほど数が少なく、なかなか定着しなかった。
 それでも、結婚式は三々九度で旧来通り自宅でするが、披露宴は公民館・農協ホールでやる、料理は近所の料理屋や仕出し屋に頼む、そうすれば多人数が収容できるので何回にも分けてやる必要はなく、一回ですみ、時間的にも労力的にも経費的にも楽であり、家族と近隣の家々のお手伝いの負担は減る、という合理化を図る地域や家々も出てきた。

 私の結婚はちょうどそういう時期の1959(昭34)年だった。私は農家の長男、当時仙台にいたもののいつかは生家に帰って農業をやるつもり(宅地化の進展でそれはできなくなり、結局は戻らなかったが)、そうなれば生家で結婚式をあげなければならない。そして農家の後継者らしくこれまでの形式で結婚式をやることがこれまでのまたこれからの隣近所や親戚との付き合いから必要不可欠となる。しかし私としては旧来の虚礼、流行りのど派手な結婚式などはやめるべきと考えている。そこで何とか旧慣を変えるべく努力し、父の協力を得て慣習と簡素化の妥協を図ることにした。式・披露宴は従来通り三々九度で自宅でやるが、私たち二人も含めて全員平服とし、宴会は三回・二日ですませる、結納・嫁入り道具はなしとするという妥協案でやることにしたのである。家の体面、しきたりなどからして祖父母と母は不満、 隣近所や近隣の農家の間ではかなり噂のタネとなって評判もあまりいいものではなく、父には苦労をかける等、家族には申し訳ないことをしたと思っている。なお、住んでいた仙台では友人たちが主催してくれて、大学関係者や友人たちが会費制の祝賀会をやってくれた。

 しかし、60年代からの高度成長はこうした簡素化の動きに歯止めをかけた。
 嫁入り道具には電気洗濯機などの電化製品が加わり、旧来の慣行にはなかった婚約指輪とか結婚指輪の交換などがなされるようになってきた。
 もう一方で、結婚式は自宅で、披露宴は農協のホールや公民館等を借りて招待客全員に来てもらい、仕出し料理を利用する等して一回でなされるようになってきた。こうした一日で終わる結婚式は、それまでの何日間にもわたる結婚式と比べると時間的経済的にもきわめて合理的となつた。これは先ほど述べた「新生活運動」の成果もあったと思われるのだが、よくわからない。

 他方、都市部では、結婚式は神社で(このいわゆる神式なる結婚式は戦後の高度経済成長期に一般化、普及したものとのこと、戦前の政府による神社保護が戦後なくなったので生き残りのための策として神社が始めたものなのかと思ったのだが、どうなのだろうか)、披露宴は社務所や神社が併設した宴会場で、もしくは近くのホテルのホールや結婚式等の宴会を行うためにつくられた宴会場などで、一回でなされるようになってきた。
 戦後のベビーブーム世代が結婚適齢期を迎えた時期ではなかったろうか、結婚式に特化して宴会を行う結婚式場が全国各地に成立し、ホテルも積極的に結婚披露宴を受け入れるようになった。

 やがて、結婚式場・ホテルに神社の神殿を模した挙式会場が設けられ、アルバイトの神主と巫女による祝詞とお祓い、三々九度という神前結婚と、宴会場での披露宴が同じ場所で同じ日になされるようになった。
 こうした動きは農村部にも波及し、結婚式・披露宴は地域の中心的な市や町に建設された結婚式場・ホテルで、婚家の近隣の招待客は式場のバスや貸し切りバスで送迎して行われるようになってきた。

 こうしたなかでブライダル業界なるものが成立し、全国チェーンまででき、結婚式はもうけの対象となり、さらに古式豊かな謡いがなくなって神式になり、一方披露宴ではウェディングケーキ入刀とかキャンドルサービスとかの洋風のイベントが入る、お色直しを何回もする等々、業界のいろいろな試みが全国に普及し、一律化していった。まさにこれらは業界のもうけのための虚式化を示すもの、私にはかなりの抵抗感があった。

 20世紀末になると結婚式場にチャペルのような建物がつくられるようになって教会式なる挙式が増え、神前挙式と教会挙式の割合が逆転した。そして謡いや笙ひちりきに変わってオルガン・賛美歌を聞かされるようになってきた。これにはさらに苦々しさを覚えたものだった。
 それにとどまらなかった。教会形式の結婚式場に外人の牧師が英語とカタコトの日本語を交互に使って式を司る姿さえ見られるようになった。それをかっこいいと思っている日本人、それを利用して金をたかっている外人牧師(本当に神の教えを伝えたいと思うなら日本語を使うべきだろう、そうしないのはそもそも牧師でないからではないか、などと疑ってしまう)を見ると、腹が立ってくる。

 一方で、結婚式は本当の身内だけで昼にやり、その夜に友人たち主催で祝賀会をやるとか、外国の観光地で二人だけあるいは身内だけでやるとか、とくに式や披露宴などやらずに二人で婚姻届を出すだけにするとか、さまざまな形の結婚が行われるようにもなっている。また、結納金や嫁入り道具なしというのも増えているという。

 まあ、どんな形式の結婚式であれ結婚はおめでたいこと、本人たちさえよければそれでいいし、日程や会場の都合からそうせざるを得ない事情もあるのだろう、それでもついつい不満などもらしてしまうのは私が年を取って今の若い人たちの考え方、世の中の変化についていけなくなっているからなのかもしれない。

 それはそれとして、高度経済成長期以降、都市部でも農村部でも家父長が結婚相手を決める、家をまもるために犠牲になるなどということはなくなってきた。農村部についていえば。かつてのような貧困と農業・家事の過重労働がなくなって「家」の重みは少なくなり、身分的な差別もなくなり、都市との格差も少なくなってようやく堂々と愛を語り、恋をし、結婚することのできる世の中になった。
 ところが、徐々に結婚が少なくなってきた。
 それは農村部にとどまらなかった。やがて都市部も含む全国的な問題となってきた。かつては考えられなかった事態が進行しているのである。なぜこんなことになってしまったのだろうか。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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