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初めての嵐の記憶



            お天気・思いつくまま(1)

            ☆初めての嵐の記憶

 戦後四半世紀も過ぎたころ(1970年代半ば)のこと、仙台での話になるが、家内が近所の八百屋さんに買い物に行ったら、近くに住む転勤族で高知出身の奥さんが缶詰からろうそくまでいろんなものを買い込んでいる。何でそんなことをしているのかと不思議に思って見ていたら、その奥さんが家内に言う、「何をのんびりしているの、明日台風が来るという天気予報が出ているのよ」と。一瞬家内は何を言われているのかわからなかったが、はっと思い当たった、それでこう言った。「ここは台風銀座の高知とは違うのよ、そんなに買い込まなくとも仙台では大丈夫なの」と。
 私の生まれた山形も同じ、秋深まったころの西からの強い季節風には何度かあったことはあるが、本などで読む「嵐」というものに一度は遭ってみたいと幼いころは思っていたほどで、台風に遭った記憶はまったくなかった。

 1944(昭19)年、私が小学校(当時は国民学校と言ったが)三年のときだったと思う、初夏のよく晴れたある日のことだ。3時間目の授業が始まったばかりではなかったろうか、突然窓の外が真っ暗になった。真っ黒な雲が低く立ち込めている。当然教室も暗くなり、教科書の字も読めない状況になった。当時のことだから教室に電灯などない。
 そのうちゴオーッというすさまじい音が聞こえてくる。風である。今まで体験したことのないような大風、大きな音で先生の声はまったく聞こえない。鉄筋コンクリート建てだから建物が揺れることもなし、雨風が中に入ってくるわけでもなしなのだが、あまりの雨風の音のすさまじさにみんなは声も出ず、顔を見合わせるだけ、その友だちの顔も教室内がうす暗くなっているのでよく見えない。教科書の字もよく見えない。
 当然授業は中断だ。うなるような、何か倒れたような、飛ばされていくような、ドーンと何か落ちたようなすさまじい振動音がする。何が起きているのか窓の外を見ても、雨がすさまじい音をたてて窓ガラスに吹き付けてまったく見えない。
 これが大嵐というものだろうか。嵐というのは本で呼んだことはあるが、私にとっては初めての体験だった。30分だろうか1時間だろうか、その間何をしていたのか記憶もない。ただただ黙って、恐怖と不安で身を縮めて腰掛に座っていたことだけは覚えている。
 やがて風はやみ、教室は明るくなってきた。日も射してきた。みんなほっとした顔をし始めたところで授業は再開した(そのときに先生が何を言ったのかも全然覚えていない)。
 下校時間となって家に帰ったが、その途中て何を見聞きしたのか、これも記憶に残っていない。鮮明に記憶しているのは、家で祖母から聞いた話だ。
 近くの八幡神社(前に何回か話題にしている)の大欅(けやき)の木があの風で途中から折れ、それがその隣のお寺の庫裏の屋根の上に落ち、ぺっちゃんこになってしまったというのである。その庫裏の部屋におばあちゃんが病気で布団を敷いて寝ていたらしいのだが、たまたま便所に行こうと起き上がって隣の部屋に入ったところに落ち、命は助かった、まったくの偶然、不幸中の幸いだったとのことだった。
 早速八幡様に見に行ってみた。何百年もの樹齢の幹の白い大きなけやきの木(雷で途中で折れていたが、今であれば天然記念物に指定されるような大木だった)、それが途中でぽっきり折れていた。その上半分が庫裏の上に落ちてみるも無残にぺっちゃんこにつぶれていた。よくまあおばあちゃんが腰を抜かした程度で助かったものだと驚いた。あまりの突然の嵐、対策も何もとられないのだから、当然農作物等にもいろいろ被害があったと思うのだが、それ以外の被害はわからない。新聞でもラジオでも報道されなかった。当時それは軍事機密だったからだろうが。生家の田畑にも被害があったのではないかと思うのだが、聞いていない、稲は出穂前、野菜も生育途中だったから倒伏はなし、短時間で終わったから水害はなしで、大きな被害を受けなかったのではなかろうか(注1)。
 私にはこの時が初めての体験の嵐だったのだが、もしかしたらこれは「台風」だったのかもしれない。といっても、台風と言う言葉を知ったのは戦後のことだったのだが。

 ここまで書いてふと考えた。もしもあの日、学校の遠足で一、二年のときのように学校から2~ 3㌔くらい離れた千歳山(注2)に歩いて行っていたらどうだったろうかと。田畑のまんなかであの大風、大雨に遭ったら風よけもなし、雨宿りするところなし、桑畑もあったが背が低くてあまり役に立たず、今のように持ち歩きできる簡便な雨具などなし、山に到着していたら家もなし逃げ場所もなし、人数は4クラスで多いし、まさにパニックだったのではなかろうか。もしかしてけが人や病人が出たかもしれない。
 そういうと、学校が天気予報を聞けばあるいは見ればよかったではないか、そして遠足を中止にしていたらよかったではないか、そうすればそんな問題は起きなかったはずだと言われるかもしれない。
 そうである。天気が予測できれば、中止とか雨具の用意とか避難場所の準備とか、ろんな対応策がとれる。
 しかし当時は新聞、ラジオの天気予報などなかった。そもそも私たちは天気予報という言葉すら知らなかった。戦時中は軍事機密、敵に知られて利用されてはならないということで公表を禁止していたとのこと、これも戦後知ったことで、そもそも天気予報というものがある、予報ができるなどということを私たち幼い子ともたちはみんな知らなかった。私などは天気予報があることすら知らなかった。そもそも天気を予測することなど、神様じゃあるまいし、できるわけはないと思っていた。
 大人のなかにも天気予報があることを知らない人が多く、知っていてもそれをたよりにしている人などいなかったのではなかろうか。天気予報を知らせるラジオを持っている家は少なかったし、新聞に載る予報は当時の通信・輸送技術からして古い情報になっており、見てもあまり信用にならなかったと思われるからである。
 そのことはまた後で述べることにするが、その日の朝は特別変わったこともなし、だから私の家でも天気の話など一切出ず、両親たちはいつも通りに畑仕事に出ていた。突然黒雲に覆われ始めたので家に急いで引きあげたが、身体がかなり濡れたとのこと、その程度で済んだとのことだった。

 もしも天気が予測できればそんなことにならず、さまざまな対応策をとって被害にあわないようにできるし、またそれを利用して作業手順や行動を考え、生産・生活両面で損失を受けないようにすることもできる。さきほど述べた高知出身の奥さんの行動などはまさしくそれである。ましてや天候に左右される農林漁業においてはそうだった。だから人間は大昔から天気を予測したいと考え、そのために努力してきた。そしてつくりあげてきたのが、天気俚(り)諺(げん)=天気の変化に関する経験則をまとめた古くからの言い伝えだった。
 ある地域だけに特有の天気の変化に注目したもの、かなり広範囲にどこでも利用可能な現象を要約したもの、比較的正確なもの、不正確なものさまざまあったが、私たち子どももそれを口伝えに覚え、活用したものだった。当たらない場合の方が多かったが。

(注)
1.この一段落は、コラムJAcom農業協同組合新聞・www.jacom.or.jp/column/ 酒井惇一「昔の農村・今の世の中」、第四回「お天道さまにはかなわない」2018年5月24日掲載記事を中核にして書いたものである。
2.16年10月24日掲載・本稿第八部「山菜『採り』・『盗り』」(1~2段落)参照。

(余談)
 昨日(19年7月24日)の参院選で野党が当選した一人区の県、そのうちの岩手・秋田・宮城・山形・新潟の5県は、奇しくも北緯38度線のところに固まっており、しかもすべて稲作を中心とする農業県だった。前回・三年前の参院選もほぼ同じ結果だった。しかし、今回の参院選では各県の農政連(農協の政治団体)が自民党支持という苦渋の決断をした。にもかかわらず、野党協力のもとに政府与党は敗北したのである。農業・農協つぶし、地方軽視、アメリカべったりの政治に対する不満が、前回に続いて爆発したものといえよう。
 今朝鮮半島の38度線が世界的な注目を集めているが、その同じ38度線を基軸として日本の政治を変える動きが起きていることも私たちにとっては注目に値すること、この動きが35度、30度と国内を南下し、さらに40度と北上し、全国各地に広がっていくことを期待したいものである。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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