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戦後の台風の記憶



            お天気・思いつくまま(3)

            ☆戦後の台風の記憶

 神風=台風は戦時中吹いてくれなかったが、戦後になって何度も吹き、大きな被害を全国各地にもたらすようになった、これは天罰だろうか、と子ども心に思ったほど、戦後、台風のニュースが流れ、しかも大きな被害を全国各地にもたらした。
 しかし、実は戦時中も台風は日本を襲っていた。ただそれが軍事機密として新聞やラジオで報道されず、実際に被害を受けた地域の人しか知らかったというだけのことだったようだ。もちろん私がまだ子どもでそういうニュースを知らなかっただけということもあるかもしれない。
 もう一つ、戦後になって天気予報が再開され、台風の予報や被害の情報が新聞やラジオで全国一斉に報道されるようになったので、戦後急に台風が増えたように感じさせたのかもしれない。しかも戦争による山林の荒廃、道路や河川等々の整備不足等々で台風が大きな被害をもたらしたことが新聞ラジオで何度も報道されたことも、台風が多く来たような印象を私たちに与えたのではなかろうか。
 それだけでもなさそうだ、アメリカ占領軍によって台風に名前がつけられ、それが復活した新聞・ラジオの天気予報やニュースで流されたこともあったのではなかろうか。名前をつけたぐらいで何で?と思われるかもしれないが、それが何とカタカナ、あまり聞いたことのないアメリカの女性の名前、しかもそれが夏から秋にかけて連日のように新聞・ラジオで報道される、これは強烈だった。
 何でアメリカの女の名前なのか、こんな名前をつけるから神様が怒って大きな被害をもたたらすのだなどと笑ったりしたものだったが、戦後アメリカ占領軍が本国と同じようにアメリカの女性の名前をABC順につけたものとのこと(注1)、それらのうち私の記憶しているのはキャサリン、アイオン、デラ、キティ、ジェーンである(注2)。この台風はすべて東北に大きな被害を与えたもの、何か昔話をするとその名前が出てくることがあるので、今も忘れられないでいるのだろう。
 そんなことが重複して戦後すぐは特に台風が多かったようにいまだに感じているのかもしれない。

 これらのアメリカ女性台風が来襲したのは私の小中時代、山形にいたころだが、私の記憶では風よりも大雨の被害で覚えている。1949(昭24)年だったか50年だったか、どの台風だったのか覚えていない(あるいは熱帯低気圧でしかなかったのかもしれない)のだが、日中の豪雨がやんでも遠くの中小河川の氾濫している音が夜中ゴオーッとすさまじく聞こえてきたのを覚えている。しかし近隣で被害を受けたという話は聞かなかった。その4~5日後のことである、たまたま近くに住むSTちゃん(注3)といっしょに山寺村にある母の実家に遊びに行く予定をしていたので、ともかく朝早く出発した。よく晴れて先日の風雨のことなど忘れさせるようなさわやかな天気だった。仙山線に乗り、楯山駅を降りて歩き始め、高瀬川という大小の石ころだらけのけっこう大きな川にかかる橋(当時としては立派だった)を渡り終えたら、何と前の道路がすっぽり数㍍削り取られている。高瀬川の上流の氾濫で堤防が決壊し、そこから流れ出した水が土砂といっしょに田んぼの水稲をなぎ倒してもう一本新しく川をつくり、その川の水が道路を切断してさらにその下の方に流れていくようになったということだった。その道路は山形―山寺間の主要道路、そこを通らないわけにはいかないので、みんな道路からその新しい川に降りて下駄を脱いで水に入って渡り、また登って道路に戻らなければならない状況になっていた。
 こうして母の実家にようやくたどり着いて祖父母に聞いたら、その近くを流れている立谷川からあふれだした水が家の裏の桑畑をゴーゴーと音をたてて流れていったとのこと、田んぼと違って桑畑だから水さえひけば葉っぱをとって蚕に与えることができるので助かったがという話だった。
 これが私にとって二度目の、戦後ということでいえば初めての台風(だと思う)被害遭遇だった。そして台風・氾濫のたびに川筋が変わり、扇状地が形成されていくと習ったことを実感としても感じたのはこのときだった。もちろんこのとき被害を受けた田畑や道路はすべて修復され、新しい川はできず、川筋は変わらなかったが。

 しかし、キャサリン、アイオン、デラ、キティ、ジェーン台風の被害はそんな程度ではなく、全国各地にさまざまな被害を与えた。戦時中の林野の荒廃や治山治水対策の後退はそれに拍車をかけた。それは新聞やラジオ等で見聞きはしていたが、当時は遠い地域の話として、同情話として聞いていた。それでもそれらの台風の名前は記憶に残った。そしてその後も何度かこの台風の名前を聞いた。東北に大きな被害を与えたものだからである。宮城県で言えば、北仙台と加美中新田の間44㌔ を走り、「軌道っこ」「軽便っこ」と呼ばれて親しまれていた「仙台鉄道」という軽便鉄道(注4)の路線がこれらの台風による河川の氾濫で線路や鉄橋が流される等繰り返し被害を受けたために廃線になってしまったこと(「鉄ちゃん」だった私としてはこれに乗れなかったことが口惜しかった)、岩手県では北上川の氾濫で田んぼが大きな水害を受けたことが、農村調査などのおりに農家の方をはじめ多くの方から何度も話に出たものだった。それでそのたびに昔の記憶が補強され、いまだにあの台風のアメリカ女性の名前が忘れられないでいるのだろう。
 もちろん、そもそもは新聞・ラジオで再開された天気予報と台風被害のニュースで繰り返し繰り返しこのアメリカ女性台風の名前が出たためでもあろうが。

 この台風の名称が変わったのは、講和条約締結で米軍の占領が終わり(その内実は別として)、これまでのように米軍の指示にしたがわなくともよくなった1953(昭28)年からで、敗戦前にやっていたように「台風○号」と発生順に番号で呼ぶようになった。
 ただし、特に被害の大きかった台風については上陸地点など特別に名前を付けて呼ぶことにした。この戦後第一号がその翌年の洞爺丸台風だった。

 1954(昭29)年の秋のある日の夕方のことである。大学に入って住むようになった仙台市郊外(今は町のど真ん中になっているが)の下宿先の庭にある井戸端で洗い物をしていた。洗い終わって立ち上がり、きれいな夕焼け空を眺めた。郊外でもあり、今と違って車もあまり通らないころなので本当に静かな夕方だった。そこにラジオのニュースの声が下宿先の縁側の方から流れてきた。夕焼けを見ながら聞くともなしに聞いていると、昨夜台風が津軽海峡を襲い、青函連絡船が沈没し、多数の死者が出ているという話である。
 驚いた、まったく知らなかった。当時は学生がラジオなど持てるわけもなし、新聞も金がなくてとれず、食事の時に下宿のラジオを聞かせてもらうだけ、そういえば前夜のラジオで台風の話はしていたが、東北に影響があるような話はしていなかったようで、台風のことなど完全に忘れていた。その台風通過の当日つまり昨日の天候も覚えていない。ともかく日本海に抜けた台風が津軽海峡から北海道に上陸し、大きな被害を与えたらしい。そして私にとって幼いころの思い出のあるあの大きな青函連絡船(注5)を転覆させ、たくさんの犠牲者を出したというのである。
 呆然と立ちすくむしかなかった。そのとき見上げた夕焼けの高い空のきれいだったこと、静かな夕暮れ時に聞こえてくるアナウンサーの淡々とした声、いまだに忘れられない(なお、この日は洞爺丸遭難日の翌日ということからして9月27日だったと思われる)。
 このように大きな被害を出したので、この台風は遭難した青函連絡船洞爺丸の名前をとって「洞爺丸台風」と後に名付けられた(注6)のだが、1950年代にはそれ以外にも伊勢湾台風を始め三つの命名台風があり、戦争被害に加えての天災続き、まさに混乱の時代だった。
  (次回は8月19日掲載とさせていただく)

(注)
1..このことについては本稿の下記掲載記事でも簡単にだが触れている。
  12年11月29日掲載・本稿第五部「山林と農地、川と海」(2段落)
2.調べてみたら他にもジュディス台風、ルース台風という大きな台風があったらしいが、言われてみればそんなのがあったかもしれないという程度にしか記憶にない。なお、キャサリンは現在カスリーンと言われているとのことである、それがなぜなのか私にはよくわからない。

3.私の両親の仲人をしてくれた夫婦の話を前にしたが(下記参照)、STちゃんはその息子つまり私の母のいとこで、当時旧制東北大農学部の学生だった。近所に住んでいて家同士親しく付き合っており、年令もそれほど離れていなかったので名前を「ちゃん」付けで呼んでいたが、私がその後東北大に進学したのは彼の影響もあった。
  19年5月20日掲載・本稿第十部「『家』の維持のためだった結婚」(1段落)
4.12年5月9日掲載・本稿第四部{「国鉄ローカル線、バス、軽便鉄道の変化」参照
5.11年1月12日掲載・本稿第一部「閉ざされた社会」(1段落)参照

6.大学の同級生のA君の父親がこの洞爺丸に乗船していて亡くなったことをその数日後聞いた。彼の父親は国鉄(連絡船は国鉄経営だった)の幹部職員で、こうした幹部職員の何人かが洞爺丸に乗っており、その彼らが台風の予報があるのに無理やり出航させた結果被害が引き起こされたのではないかなどと後に騒がれたが、真相は明らかにならなかったと記憶している。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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