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当たるようになった天気予報



            お天気・思いつくまま(4)

          ☆当たるようになった天気予報

 福島県中通りと宮城県南の水を集めて流れる阿武隈川の下流のほとりにある小さな町で私の家内は生まれ育ったが、阿武隈川はかつてよく氾濫したらしい。家内の記憶に残っているのは、太平洋戦争直前の1941(昭16)年の夏(だったと思うとのことだが)、洪水で生家の前の道路まで水浸しになり、そこを舟で避難する人がいたこと、家の畳が浸水で濡れないようにと中二階にあげたこと(結局床上浸水はなかったとのことである)を覚えているだけ、台風による洪水なのかどうかなどまったく覚えていないがという。この話を聞く限りでは、これはかなり大きな水害、だから台風の影響だったのだろうと思うのだが、それが新聞やラジオで報道されたかなども覚えていないという。当時は太平洋戦争直前、まだ天気予報や自然災害の報道が禁じられていないのだが、家内はまだ6歳で幼く、新聞やラジオなどを見聞きすることもなかったからなのだろう(注1)。
 もちろん天気予報などという言葉も知らなかった。私もほぼ同じ年齢、私も知らなかった。そして学校に入った頃は戦争で天気予報の公表は禁止されたから耳に入ることも目に触れることもない。ということで、おそらく昭和10年代に生まれたもののほとんどは、私たちと同様、戦後になって初めて天気予報なるものの存在を知ったのではなかろうか。

 改めて調べるべくネットで検索してみたら、わが国の天気予報は1884(明17)年から、ラジオ放送による予報は1925(大14)年から始まったとのことである。一般庶民にそれがどのように受け止められたのかわからないが、そのころはまだラジオの受信者も少なかったのであまり関心はなかったのではなかろうか。私の生まれた頃は生家にラジオがあったが、ラジオの天気予報が話題になった記憶はない。天気を気にする農家だったにもかかわらずである。なぜかわからない。
 1941(昭16)年12月8日、太平洋戦争の開戦のその日に機密保持のためということで天気予報の放送が中止させられたのだが、私の生家の周辺では戦争が激しくなる中でラジオを購入する家が増えた。警戒警報、空襲警報を聞くためである。もちろん、サイレンや半鐘で警報を知らせてはくれるが、一瞬でも早く詳しい情報を知るためなのだろう。何しろ当時は(とくに戦争の終わりのころには)米軍機が通り過ぎてから警戒警報のサイレンや半鐘がのんびりとなるという状況、ともかく生き抜くためにより早く詳しい情報を知ろうとしたのである。それがラジオの普及率を高めたのではなかろうか。そして敗戦近い頃はどこの家でもラジオの音を高くして庭などに出ている家族やラジオのない近所の人、道路を通っている人などにも聞こえるようにしていた。といっても、空襲でそのラジオが焼かれ、最後のころにはラジオの総台数、聴取戸数は減少したかもしれないが。
 当時の国民にとってはお天気よりも何よりも命にかかわる空襲の予報(これもなかなか当たらなかったが)を聞きたかったのである。

 敗戦の日の二日後、1945(昭20)年8月17日、ラジオの天気予報が再開された。とのことだが、私には記憶がない。私が初めて聞いた日も、内容も覚えていない。それからもあまり印象にない。だれから聞いたのか、なぜ覚えたのかは記憶にないが、天気予報という言葉を知り、たまにそれをラジオで聞くことはあった。しかし、お天気の予報などできるわけなどないと思っていたような気がする。私の家族などはお天気を気にする農家であるにもかかわらず天気予報など聞かなかったし、あてにしてはいなかったようである。話題にすらならなかった。友だちとたまに話題にすることはあったが、それはいかに天気予報が当たらないかという悪口だった。天気予報のアナウンサーの口調をまねながら、「明日は晴れたり曇ったり、雨が降るところもあれば降らないところもあったりするでしょう」などと言いあい、「これてはどれかが当たるよな」と言ってみんなで笑いあったりしたものだった。
 さらにこんなことも友達が教えてくれた。
 「食事の前に『天気予報、天気予報、天気予報』と三度繰り返して唱えると中(あた)らない(=食中毒にならない)そうだ」
 当時は食中毒が大きな問題、それに中(あた)らないようにするにはどうするかがどの家庭でも(とくに子どものいる家庭では)重要な問題であり、そのための対策としての民間の言い伝えがあったり、おまじないがあったりしたのだが、そのおまじないの一つに「天気予報」が新しく加わったというのである。
 それで大笑いしていたら、別の友達は次のように言う、
 「いや、『気象庁、気象庁、気象庁』と唱えた方がもっと中(あた)らないそうた゜」
 気象庁は当たらない天気予報を流す大本(当時は気象庁だけしか予報を流すことはできなかった)、その大本の名前で祈る方がより効き目があるのだと。なるほどそう言われればそうかもしれないとみんな納得、また大笑いしたものだった。
 戦後でさえそうなのだから、明治大正期はもちろん昭和戦前などはましてやそうだったのではなかろうか。しかしあまりそれは話題にならなかったろう。予報を知らせる新聞やラジオを見聞きしている家はまだ少なかったからである。戦後の民主化、復興の過程で新聞、ラジオが普及する中でこうしたことが話題になるようになったのではなかろうか。

 そんなこんなしながらも、台風の予報とその被害がラジオのニュースや新聞で流されるなかでみんな少しずつ天気予報を見聞きするようになり、「ミリバール」(注2)などという新しい言葉にもなじむようになってきた。また予報の精度も少しずつあがってきた。それで、どこまで当てにするかは別問題として天気予報を何かと言えば参考にするようになった。
 テレビやラジオも何度も定時に地域ごとのくわしい予報を流すようになった。台風などになるとテレビラジオが何度も予報を流し、状況を伝えた。もちろん、その情報源は気象庁、だから新聞・テレビ・ラジオ等々みんな基本的に同じ内容であり、詳しくあるいは早く報道するかしないかの違いがあるだけだったが。

 1970年ころ、ちょうど米の第二次減反が村々で大きな問題となったころ、東北の農家がこれにどう対応しようとしているのかをNHK仙台支局と私どもの研究室と協力して東北の稲作地帯数カ所を調査したことがあった。そして私たちの調査をNHKが撮影・取材し、この調査にもとづく報告を私たちがまとめ、それを東北全域に報道するのである。これを数年間続けたのだが、当時のテレビ撮影は大変だった。今ならハンディカメラですむ程度の撮影も小型バス一台に機材を積んでの撮影だった。そのバスの運転手さんと雑談をしていときにこんな話をしてくれた。

 ある漁村に行ったとき、漁師さんのお宅を訪ねた。
 「こんにちは、NHKの放送局のものです」
 玄関に出てきたおばあちゃんにこうあいさつしたら、にこにこしてこう言った。
 「ああNHKさん、ご苦労さまです、お宅の天気予報は他のテレビよりもよく当たるねえ、お世話になってます」
 答えに窮した。当時の天気予報の情報源は一つ、気象庁だけ、他の放送局と予報の内容に違いはないはずだからである。しかし、これもNHKに対する信頼からきていもの、そう考えて
 「はあ、ありがとうございます、これからもがんばります」
 こう答えてしまった。

 みんなそれを聞いて大笑いしたものだったが、平成生まれの人には、何で笑うのかわからないのではなかろうか。というのは、95(平7)年から天気予報が自由化され、予報業務許可事業者が独自の予報を発表できるようになったからである。NHKの予報よりも他の放送局の予報がより正しい場合もあれば、その逆の場合もあるようになったのである。といっても、そう大きく異なることはないのだが。予報の基礎となる天気に関する各種情報は気象庁の提供するデータが基本となっているからである。

 話は戻るが、1980年より天気予報の一つとして降水確率を発表するようになった(当初この確率の理解の仕方で若干の誤解や混乱があったようだが)。88年からは降水短時間予報、96年からは分布予報・時系列予報など、多様な種類の予報が発表されるようになり、これらもみんな利用するようになった。
 こういう進歩を言っていけばきりはないが、それにしても天気予報はよく当たるようになったものである。気象庁によると、これは気象学の発達、世界的な気象観測網の構築、コンピューターの性能向上による数値予報インフラの整備によるものとのことだが、長期短期、時間単位、地域単位できめの細かい情報が提供されるようになった。それに加えてテレビ、ラジオ、携帯型パソコン等々の情報受発信システムの普及があり、気象災害の回避に、また日常生活に大きく役立つようになってきた。

 気象に大きく左右される農家も天気予報をよく利用するようになった。そしてそれは農作業の遂行を円滑にすると同時に、干害、水害、冷害、病虫害などの回避に役立ってきた。
 しかし、農村部の過疎化高齢化が進んでこうした精度の高まった天気予報を利用する農家が激減している。何とももったいない世の中になってきたものだ。また過疎化高齢化のために気象災害が以前よりも増えている地域もある。とんでもない世の中になってきたものだ。戦後戦後のころを考えるとまさに「隔世の感」、この言葉が実感として胸にせまる。またこんなことを言ってしまう、これも年をとったせいなのだろうか。

(注)
1.家内の体験したこの台風が隣県の山形にも影響を及ぼしたのかどうかはわからないが、私の記憶にはまったくない。
2.気圧の単位であるが、92年以降は「ヘクトパスカル」に置き換えられた。「ミリバール」、私たち世代にとって最初は新鮮であると同時に怖い響きを感じた(台風の予報の時に特によく聞くものだったから)ものだが、現在はなつかしい響きのある言葉となってしまった。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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