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農業生産力の発展(3)

  

            ☆ヒデリノトキの緩和

 保温折衷苗代や早生多収品種の開発等で「サムサノナツ」の対策が前進したが、「ヒデリノトキ」への対策も進展した。これに大きく貢献したのが、戦後の土地改良事業だった。
 私の生家のある山形市鉄砲町の例でそれを見てみよう。この地域での干ばつ対策への取り組みの経過が『最上川中流土地改良区史』(註1)という本に私の父の名まで含めてたまたま載っていたからである。そこからの抜粋に高校の頃の私の思い出も若干加えて、以下紹介してみる。

 『‐‐‐‐(前略)‐‐‐‐鉄砲町土地改良区設立の前年、昭和二十六年は十年来の旱魃であり、山形県内は深刻な水不足に陥り、山形市鉄砲町、上町、砂塚、落合の四地区の二十五町歩は、水不足で田植え不能に陥いっていた。
 山形市鉄砲町土地改良区の初代理事長酒井源之助は、当時の状況を次のように回顧している。
 「昭和二十三年秋から二十六年春にかけて、農道工事を中心にした耕地整理をやった。田をいじったあとはいつもの年の倍くらいの水が必要なのだが、ところが二十六年は旱魃で雨が降らなかった。田はひび割れて、こうもり傘一本ストンと入るところもあったなあ。どうしたらいいか判らない。もう山形市の田植えは終わったのに、鉄砲町だけできなくて、そんな時『小白川(取り水の堰のある上流部の集落・筆者注)に頼んでみろ』と教えてくれる人がいて、一人で笹堰水利取締役の佐藤さんの所に頼みに行った。ちょうど小白川では役員会が開かれていた。『何とか助けてくれ。』と泣いて頼んだ。馬見ヶ崎川には昔からの取り決めがあって、勝手にできない。それを承知で『助けてくれ、このままでは鉄砲町の百姓は生きらんね(生きられない・筆者注)。』と頭を下げた。その願いが通じ、二日間だけ馬見ヶ崎川の全部の水を鉄砲町に流してもらった。田植えが終わったのは確か七月初めだったなあ。よく苗を取っておいだもんだとみんなから驚かれた。」
 このような苦労を繰り返さないため、酒井氏らは他県を視察し、井戸を掘る事業に取り組んだ。国からの補助を受けるために東京まで陳情に行った。』

 ここで抜粋を中断して私の思い出を述べるが、父たちは当時できたばかりの「積雪寒冷単作地帯振興臨時措置法」(略称「積寒法」)の補助金を利用して水源の井戸を掘ろうとした。しかし、なかなかな認可がおりない。何度も何度も市、県、農林省にかけあったがらちがあかない。そこに一つのニュースが入ってきた。農林大臣が県庁にきて、その帰りに近くの国道を車で通るというのである。そこで、関係農家数十人が国道にかかっている町はずれの一貫清水川の橋のところに集結し、待ちかまえることにした。車が通りかかったとき農民たちは一斉に国道に飛び出し、車を止めた。何事かと付き添いの役人たちが降りてきたが、ともかく大臣を出せと車から降ろし、父がみんなを代表して実情と要望を訴え、終わってから謝って車に乗せた。その後全員道路を空け、頭を下げて帰した。帰ってきた人々のうちの何人かは私の家に集まり、酒を飲みながら「昔で言えば『直訴』だ」、「手討ちになるところだ」とか興奮して気勢をあげていた。は「昔で言えば『直訴』だ」、「手討ちになるところだ」とか興奮して気勢をあげていた。
 そのせいだとは思わないが、ともかく事業の認可がおりた。すぐに東京の業者に頼み、近くの小川のわきに井戸を掘り始めた。ここでまた抜粋の文に移る。

 『地元負担金はほとんど借金だった。そうして昭和二十六年の十二月に地下水をくみ上げる井戸ができあがった。
 「水がポンプから噴き上げたときは涙を流して喜んだ。市役所の担当の課長さんをかこんで、十五、六人で茶碗酒で祝杯を挙げながらみんなで泣いた。『酒井さん、いがったな(よかったな・筆者注)、苦労した甲斐あったな』といわれて、ひとりでに涙がこぼれてどうしようもなかった。」と酒井氏は語っている。
 吹き上げる地下水が珍しく、地区の人々は毎日のように見学にきたそうである。水不足の不安は解消された。従来代掻きに要した十五日間を八日間に短縮し、水を引くために要した莫大な労力を軽減し、生産意欲の向上を見たのである。その後の井戸の増設、土地区画整理事業など、旧山形市最初の土地改良区として設立された鉄砲町土地改良区は、他地区にさきがけ、将来を見通した多くの事業を実施し、今日の山形市の発展に寄与した功績は高く評価される。‐‐‐(後略)‐‐‐‐‐』(註2)

 このような農民の動きは各地に起き、水不足の解決が進展した。
 いうまでもなく、水問題は不足だけではない。過剰も問題だった。洪水はもちろんのこと、排水不良も生産に悪影響を及ぼす。水は不可欠だが、それほどいらない時期にも田んぼに水があると収量があがらないのである。さらにぬかるみでは労働も大変だ。低湿地帯などではぬかるみが深くて腰まで浸かって田植えなどの作業をしなければならなかった。とくに仙台平野のように湖沼の干拓でできた水田、海に面した低地の水田の多い地帯はこの排水不良が悩みの種だつた。この解決のための排水路整備、暗渠排水などの土地改良も進んだ。
 この土地改良に大きな役割を果たしたのは先に述べた「積寒法」(一九五一年三月成立)であった。これは、北日本・裏日本の後進性の解決のために補助政策を展開するというものであるが、実質的には農業とりわけ土地改良事業にその補助を集中したのである。
 同時に、ダムの建設、河川改修を始めとする治山治水事業が展開された。

 ダムと言えば次のようなことを思い出す。かなり前の話になるが、大阪から島根までプロペラ機で飛んだときのことである。午後もおそかったので西日が下界を照らす。その日の光を反射してきらきら光るものが数多く見える。よくよく見てみるとため池である。大小さまざまのため池が田んぼと同じくらいの面積を占めている。こんなにたくさんあるとはこれまでまったく気が付かなかった。上から見たからそれがわかったのかもしれない。
 それなら東北にもこんなにため池があるのではなかろうか。上から見ないからわからなかっただけではないか。こんな疑問を感じてから一年くらいたってだったろうか、大阪から札幌まで飛行機で行く機会があった。よく晴れており、非常に見晴らしがよかったので、その疑問を明らかにすべく、東北地方の上空に来たとき気を付けて下を見てみた。ため池があることはある。しかし瀬戸内などとくらべたら格段に少ない。大きなダムは見られるが、ため池はあまりないのである。なぜなのだろうか。また疑問がわいてきた。
 ふと思いついた。雪が、それが降り積もる高い山々が、ため池の役割を果たしているのではないか。山々にたくさん降った雪が夏までかけて徐々に溶けて川に流れ込む。あるいは溶けた雪が地中にしみ込み、やがてまた地上に少しずつ湧き出し、川に流れ込む。だから川の水は簡単に涸れない。ため池をつくらなくとも、川に堰をつくって分水すれば灌漑ができる。
 そうだ、雪と山が貯水のダムだったのだ。また豪雨と違って豪雪は水害を引き起こさないので、雪は、灌漑用ばかりでなく治水ダムとしての役割を果たしている。
 ところが雪の少ない瀬戸内には雪のダムはない。川や雨水を貯めておくところをつくるしかない。こうしたことからため池が多く必要となる。
 こう考えると、雪とはありがたいものだ。冬になるとついつい雪を恨んでしまうが、感謝しなければならないのである。
 もちろん雪のダムは人間が自由につくり、利用するわけにはいかない。雪と雨の水をうまく調整して利用できるようにもしなければならない。豪雨や長雨などによる洪水や地崩れも防がなければならない。そのためには、高い山や渓谷を利用して大きなダムをつくるとか、それに対応する河川の改修、揚水・排水機場、用排水路の整備などが必要となる。
 それが十分になされなければ、干害や洪水が引き起こされ、水争いが起きたりする。さきに述べた岩手県紫波町の「志和の水けんか」などがその典型であった(註3)。これを解決したのが戦後の食糧増産政策の一環として展開された農業用水の安定供給のためのダム建設であった。一九五二(昭和二十七)年、山王海ダムが完成し、三百年に及ぶ水争いの歴史に終止符が打たれたのである。
 この山王海を始め、戦後の食糧不足の解決、荒廃した国土の回復と保全のために東北各地でつくられたダム、河川の改修、さらに一九四九年にできた耕作者を主体とする土地改良制度にもとずく農業用排水路整備や耕地整理等々の土地改良事業の進展は、水争いを解決し、水稲の安定多収を可能にした。水争いはもう昔話になってきたのである。
 岩手県の上空を飛びながら、山王海ダムを下に見ながら、そんなことをしみじみと考えていた。

 洪水や排水不良もこうしたダム建設や河川改修、土地改良事業の進展でかなり解決された。
 さきに述べた「ほえどのむら」と呼ばれた宮城県豊里村の洪水(註4)は北上川の河川改修で解決され、さらに戦後の農地解放があったために、村はまさに文字通りの豊里(豊かな里)になった。
 宮城県北の調査でこの豊里町(当時は町になっていた、現・登米市)を始めとする登米耕土を一望する箟岳(ののたけ)山の頂上に登ったとき、同行したフランスの女子留学生に、豊里の方を指さしてあそこの村はいまは豊かだが、その昔は「ほえどのむら」と呼ばれたところだと説明した。もちろん「ほえど」ではわからないので、「ほえど」とは「ほいと」=「乞食(こじき)」のことだと説明した。そしたら、「ああ、読んだことがあります」という。一瞬私はとまどつた、乞食を読むとは何のことだろう。わかった。彼女は乞食(こじき)を「古事記(こじき)」と間違えたのだ。思わず笑ってしまった。今度は彼女がとまどった。何で笑われているのかわからないからだ。それで「ほいと=こじき」とはbeggarのことだと説明したら、彼女も自分の勘違いに腹をかかえて笑っていた。こんなことで笑いあえる、良い世の中になったものだとそのときは考えたものだった。今はまた、米価低落で大変な状況になっているけれども。

(註)
1.最上川中流土地改良区史編纂委員会編、最上川中流土地改良区刊、一九九三年
2.この鉄砲町は高度経済成長下での開発で都市化が進み、かつての農村の面影はすっかりなくなっている。このことについては第二部で述べるが、当然この井戸もなくなった。
3.12月8日掲載本稿記事「貧しい食と厳しい労働(3)☆雨たもれ―ヒデリノトキ―」(3段落目)参照
4.同上(4段落目)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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