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小学校に入学できなかった集落



           「日本で一番最後に電灯のついた村」にまつわる話(3)

             ☆小学校に入学できなかった集落

 昭和、それも戦後になっても、人里離れた山奥に入植させられた開拓農家はもちろん、何百年もの歴史のある既存の集落にすら電気の恩恵を受けられない地域もあったと、これまで岩手県葛巻町毛頭沢(けとのさわ)集落を例にして述べてきたが、それどころではなかった、この集落の子どもたちは戦後になるまで小学校にすらまともに入れなかった。

 北上山地の中央部に位置する葛巻町出身の農経研究者NK君が『葛巻歴史散歩』という本を最近見つけた。それをぱらぱらめくっていたら、さきほどとりあげた毛頭沢(けとのさわ)集落が出てきた。そこで早速読んでみた、驚いた。この集落には小学校がなく、もっとも近い冬部小学校(注1)には遠くて歩いて通うことはできず、結局毛頭沢の子どもたちは学校に入ることはなかったというのである。小学校教育は国民の義務とされ、国民皆教育が謳われていたのにである。ところが、召集令状だけは若者みんなに来た。徴兵の義務だけは果たさせられたのである。
  『葛巻歴史散歩』に掲載されている『毛頭沢分校閉校記念誌「山の中の小さな学校」』(注2)はこう語る。

 毛頭沢集落の土石駒吉さん、召集されて日露戦争に駆り出された。戦地に行かされた土石さん、何をやっても誰にも負けなかったが、たった一つ、戦友と違って手紙が一通も来ないことがさびしく、口惜しかった。本人をはじめ毛頭沢集落には字の読み書きができるものが一人もいないので手紙が届くわけはなかったのである。もちろん、手紙が来ても土石さんは読めなかったのだが。集落のみんな小学校に入れなかったのだから、そもそも小学校がなかったのだからこれは当然のことである。
 恥ずかしく、また悲しかった土石さん、「自分の子どもや孫にはこんな思いをさせたくない、残る命は学校をつくることにささげよう」と決心した。
 除隊した土石さんはすぐに学校新設を村長(注3)にかけあった。ところが、数人しか子どもがいないところに学校はつくれない、とまったく相手にしてくれない。地域のなかにも「字を覚えてもまんまかれねえ(=ご飯食われねえ)」という人もいたし、父親もいい顔をしなかった。「そんなごどだば実家さ帰れ」(土石さんは入婿だった)と怒鳴られた。それでも「世の中に出ての恥は親父に怒られるよりつれえもんだ」と学校をつくる運動をやめず、何とか「家庭教育所」(こういうものがあるとはまったく知らなかったが、このことについては本節の末尾の「付記」で別途述べるので参照されたい)の設置を認めさせ、土石さんはその建物の敷地を提供した。しかし、こんな山深い僻地に来てくれる先生はいなかった。やっと見つけたのは定年を過ぎた酒好きの独身の先生、何とか頼んで雇い入れ、逃げられないように酒をいつも用意していたという。
 こうして最低限の教育だけは受けられるようにさせた。しかし、そこは正式の学校ではなかった。それが戦後まで続いた。

 これはショックだった。明治、大正期には貧困のための未就学児童がかなりいたという話は聞いたことがある。NHKテレビの「おしん」がその一例、私の身の回りにも近所のお年寄り=明治生まれの人(とくに女性)の中にそういう人がいた。しかし、国・自治体が学校を設置しないために就学したくともできない地域があった、電気が通らないどころか小学校すらない地域があったなどというのは初めて聞いた。
 明治以降の日本の就学率はほぼ100%と聞いていたのだが、まさかこの毛頭沢(けとのさわ)集落だけが特別などということはないだろう、他にも小学校がなくて入学できない子どもたちのいる地域があったのではなかろうか。

 同じく国民の義務と言いながら、徴兵の義務は厳しく罰則つきで地域格差なしにまもらせ、教育の義務は守られなくとも地域格差があっても国は放置したのである。その矛盾が土石さんの悲しさ、寂しさ、恥ずかしさ、口惜しさをもたらしたのだった。

 戦後の1947(昭22)年施行された日本国憲法はその第26条で「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と謳った。
 そうなれば、当然のことながら義務教育の場である学校のない地域などあってはならないことになる。
 そうしたことからなのだろう、1952(昭27)年毛頭沢(けとのさわ)に田部村立冬部小学校の毛頭沢分校が整備され、正規の教員が配置されるようになった。学校ができたのである。土石さんの悲願はようやくかなった。運動を始めてから40年、土石さんはもう白髪になっていたという。

 全国の他の農山村地域でも、新制中学校の新設ともあいまって、小学校や分校の整備が進んだ。新制高校も各地にできた。

 同時に、憲法第25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と謳った。
 そうなれば当然のことながら、電気の通じていない地域や家々があってならないことになる。電気は「健康で文化的な最低限度の生活」の必要不可欠の一部となっているものだからである。そして未点灯地域(これはほとんど農山漁村地域にあったのだが)からの人並みの暮らしをしたいという切実な要求があった。
 こうしたことからだろう、1952(昭27)年、「電気が供給されていないか若しくは十分に供給されていない農山漁村又は発電水力が未開発のまま存する農山漁村につき電気の導入をして、当該農山漁村における農林漁業の生産力の増大と農山漁家の生活文化の向上を図ることを目的とする」ところの『農山漁村電気導入促進法』が制定された。
 もうテレビの時代が大都会では始まりつつあったのにようやくだった。それでも電気の地域格差是正はなかなかうまく進まなかった。

(付記)
 さきほど出てきた「家庭教育所」、小学校の代わりに設置されたというが、そもそもそれはどういうものなのか、Yahoo! で検索してみた。しかし見つからなかった。
 そこでWikipediaの「日本教育史」を検索してみたら、そのなかに次のようなことが書いてあった。1890(明23)年に小学校令(第二次)を公布し、地方に学校設置義務を課したが、市町村長の許可があれば学校に通わなくとも家庭教育により代えることができると規定した、というのである。
 もしかすると、この「家庭教育」を、金のかかる学校をつくりたくない村長が援用したのではなかろうか。Tさんたちの雇った元教員が民間の建物の中で適宜教えるのは小学校令で認める家庭教育の延長とみなすことができる、そこで「家庭教育所」として学校の代用として認めるということにさせたと考えられるのである。あるいは、どこか他の地域にこういう例があり、それに倣ったのかもしれない。いずれにせよよくわからない。もしも「家庭教育所」のことおわかりになる方がおられたらご教示願いたい。

(注)
1.毛頭沢集落はそもそも冬部村にあり、明治22年にその冬部村は田野村と合併して田部村となったのだが、田部村内には冬部小学校と田野小学校の二つあった。
  なお、田部村は1955(昭30)年に葛巻町・江刈村と合併して現在の葛巻町となっている。
2.毛頭沢分校閉校記念誌「山の中の小さな学校」(藤岡一雄『葛巻歴史散歩』2003年、226~227頁所収)
3.当時は田部村だったのでこの村長は田部村長ということになる。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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