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増えた医者通い


         随想・東北農業の七十五年 (十一)
           --老いのつぶやき--


           高齢化・医薬の今昔(1)

            ☆増えた医者通い

 年寄りになるとくどくなるというが、私も年寄りまっただ中、また同じような口説きが続くことをお許し願いたい。
 今年の7月のことである、Ryo安室さんという方から次のようなコメントを私のブログにいただいた。

「はじめまして 6回目の歳男。
 中学生の時、お隣の(国労)さん曰く。55歳定年で3年で半数になる。それどころか退職金もらう前に亡くなるのも珍しくなかった。
 養老孟司×隈研吾対談の中で今は福島県職員は60歳定年後生存率50%は10年とか。老衰が死亡原因の三番目になったと言う。
 記事を読みながら、長生きしてきたと感じてます。(父親は私が成人式の前の年に48歳で死去) 」

 おわかりかと思うが、文中の(国労)とは国鉄労働者=今のJR職員のことであり、RAさんが中学生のころというとこの国労さんの話は今から約60年前、1960年ころの話ということになる。
 そういえばそうだった。あのころまではみんな早死にだった。安室さんのお父さんは48歳で亡くなられたとのことだが、私の職場にも定年前に亡くなる職員の方がいた。ちなみに私の生母は私が小学5年のとき数え33歳で死んだ、戦後すぐのことだった。
 そうだった、あのころ60歳などといえば本当に年寄りで顔には深いしわがより、農家の場合などはほとんどみんな腰が曲がり、まさに「お爺さん」「お婆さん」であって、余命いくばくもなし、だから還暦として長寿のお祝いをしたものだった。

 私はその60歳を過ぎてもう23年にもなり、四半世紀近くをまだ生きている。長生きしたものだ。
 私ばかりではない、65歳以上の人を「高齢者」というのだそうだが、その高齢者は日本の人口の四分の一を占めるにいたったそうだ。4人に1人が高齢者になってしまったのである。こういう社会のことを「超高齢社会」というのだそうだ。
 そして男の「平均寿命」は80.98年、女は87.14年にまで延びたという。家内はまだだが、私はその年齢を追い越してしまった。

 ただし、「超高齢社会」は少子化つまり若い人が増えないということから相対的に高齢者の比率が高くなるということからもきているのだそうたし、「平均寿命」は今生まれている子どもの予測寿命であって私たちの寿命ではないとのことである。まあそれはそれとして、いずれにせよ昔から比べると長生きするようになったものである。誰々さんが60歳で亡くなったなどという話を聞くと、まだお若いのにとみんなが言うような時代になったのである。外を歩いていても、バスに乗っても、生協に買い物に行っても、とにかく年寄りが多い。病院にいくとましてや多い。腰を曲げて、あるいは杖をついて、手押し車にすがって、がんばって歩いてくる。

 他人のことばかりいえない、私も長生きしたと思う。よくもまあ80過ぎまで生きたものだ。子どもの頃から身体が弱く、しょっちゅう病院通い(注1)、30歳代半ばまでは私が兄弟全員の病気を引き受けていると言われていたくらいだったのにである。家内も幼い頃はそうだったらしい。ところが私は35歳のとき大手術(当時としては)で入院(注2)をして以来、70歳に腰痛で入院するまでほとんど病院にかかることなく、定年退職まで過ごしてきた。家内もお産で入院したことがあるだけ、後は歯の治療に通う程度だった。きわめて優良な公務員共済・私学共済の加入者だったといえよう。
 ところが、70歳で退職して国民健康保険に移行した頃から私の病院通いが少しずつ増えてきた。とくに80歳を過ぎてからは通う診療科も回数も大幅に増えた。しかも若い医師には診断できなかった病気=戦前の医学の教科書にしかみられない病気になって長期入院したり、ようやく「成人病」にかかったと思ったら幼児期の病気が再発して手術したりと、さんざんである。こうして、70歳代の整形外科、耳鼻咽喉科、皮膚科、歯科通院程度だったのに、80歳以降はそれに消化器外科・内科、泌尿器科、眼科が加わり、この4年の間に入院4回、手術2回と来たもんだ。まあこれまで長年払ってきた保険料を返していただいているだけだなどと冗談交じりに言っていたのだが、これからはまちがいなく私たちの受け取り超過になるだろう、申し訳ないと考えてしまう。
 それにしても、と考える、こんなに病院にかかれるのも、そして苦痛を和らげ、長生きさせてもらっているのも、医療費を払ってしかも普通の暮らしができるのも、国民皆保険、後期高齢者の1割負担のおかげ、本当にありがたいことだと。これが3割負担などになったら大変、ましてや自由診療などとなったら破産である。それなら医者にかからなければいい、死亡診断書をもらうときだけにすればいい、とは思うけれどもやはり痛いのはいや、苦しいのはいや、不自由になったり、動けなくなったりして人のお世話になるのはもっといやである。世界に誇るわが国の国民皆保険の制度、これは何としても維持してもらいたいものだ。これは私ばかりではないだろう。国民の九割九分まで、大金持ち以外、みんなそう願っているのではなかろうか。

 もう一つ、最近とくに考えるのは、住まいの近くに病院があってほしいと言うことだ。
 幸いにして私の場合はその点で恵まれている。自家用車のあったこの十数年などはとくにそうだった。しかし80歳も過ぎたので家内が3年前に免許返上、なぜかそのころから家内もとたんに病気がちになる(私の消化器系と違って循環器系だが)、怪我はするで通う病院も回数も増えて私より多くなった(入院はしないですんでいるが)。最近では足が急に不自由になってその病院に通うのも大変になり、病院に行くのに私が付き添うようになった。それで私の病院通いは先月の場合など計8回にもなっている。それでも私たちの場合などまだいい。バスは何十本も通っているし、停留所は近いし、いざとなれはタクシーでも行ける距離だ。
 しかし、農山漁村になるとそうはいかない。病院、医院はどんどん減っているからだ。もちろん昔と違って自家用車があるから、大都市の病院までそれでいけばいい。しかし、免許返上している高齢者は運転できない。しかも公共交通機関の本数、路線は減らされている。タクシーなど頼んだら大変な料金になる。

 今の高齢者=私たち世代が子どものころ、無医村で苦しんだ農山漁村がかなりあった。まだ徒歩の時代、おんぶしたり、大八車やそりに乗せたりして、何時間もかけて歩いて町の医者のところに行くしかない。だから途中で亡くなることもしばしばあった(注3)。戦後こうした無医村をなくすべく努力をしてきたのだが、今ふたたび医者のいない地域ができつつある。しかも厚生労働省などはさらに病院を減らそうとしているようだ。つい先日のニュースでは、全国の中都市以下の地域に存在する公立・公的病院のうちの三分の一について統廃合を含めた再編を求めることにしたとのこと、しかもその地域を見てみるとほとんどが農山漁村部の病院である。「無医村」の復活を進めようとしているのだろうとしか思えない(そんなことはないと厚生労働省は弁解しているようだが)。

 農山漁村は、私たち世代は、結局またかつてと同じ苦しみを味わうことになるのだろうか。医者のいない村に生まれ、医者のいなくなった村で死んでいくことになるのだろうか。これでは農山漁村に住む人々、農林業を支える人たちなどいなくなってしまうが、それでもよいということなのだろうか。
 どうも私たちは長生きをしすぎたようだ、こんな世の中になるとは思わなかった、などとぼやきたくなるのだが、これも年をとったせいなのだろうか。

 と言いながら、私などはまだ病院にかかろうとしている。とくに長生きしたいわけでもないのだが、前にも書いたようにともかく苦痛は勘弁願いたいし、他人に迷惑をかけたくないからだ。もちろん病院に迷惑をかけることになるが。私以外の人も同じだろう。私の場合は、できたらもう少しこのブログを続けたいからということもある。書き残していることが多々ある。
 こうした私たちの気持ちに今の医学はよく応え、ともかく治すべく努力してくれる。さらには病気にかからないようにもしてくれる。医療技術の進歩は本当に格段の差だ(注4)。戦前から戦後にかけてのころを知っている私たちからすると驚くばかりだ。
 おかげさまで私もここまで生きてこられたのだが、またもやその技術の恩恵を受けなければならなくなった。明26日、左眼の白内障の手術を受けるようにと医師から宣告されたのである。といっても入院は必要なし、日帰りである。私たちの若い頃、今から50年前までは最低一週間入院だったのにである。すごいものだ。
 それでも手術後少なくとも一週間は外を歩くときは色眼鏡(サングラスと言った方がかっこいいか)をかけるようにとのこと、それに加えて新聞や小説を読んだり、テレビを見たりするのは控えめにするように、飲酒も一週間は禁止とのことである。これでは楽しみがなくなる。パソコンに向かうのはいつごろから、どの程度いいのか、まだ詳しくは聞いていないが、きっとだめと言われるだろう。困ったものだ、これではどうやって一週間を過ごしたらいいのか、何をしていたらいいのかわからない。ラジオだけ聞いていろということなのか。それもつらい。もちろん手術自体も怖くていやだ。痛いのはもちろんいやだ。
 でもまあ、何とかがまんしよう。ともかく見たり、読んだり、書いたりがこれからより楽になるはずだし、このブログの連載も容易になるはずなのだから。

 そんなことで、このブログは来週と再来週は休載、12月16日(月)再開とさせていただきたい。そしてこの手術の感想をはじめ医療の今昔や健康保険について考えているところを述べさせていただきたい。
 本稿第十一部の始まりが病気、手術の話とは申し訳ないし、これからが思いやられるのだが、前回つまり本稿第十部のブログの最終回(注5)に「くもり」さんからいただいた次のようなコメント、
  「第十部おつかれさまでした!
  これからも楽しみにしています!」、
これに応えられるように、何とかがんばりたいと思っている。

(注)
1.14年2月3日掲載・本稿第六部「幼かった頃の病気・追記」参照
2.11年1月19日掲載・本稿第一部「霜焼け、鼻水、医者」参照
3.11年4月4日掲載・本稿第一部「『はえびょうたがり』の解決」(5段落)参照
4.14年2月10日掲載・本稿第六部「医者の今昔」参照
5.19年11月18日掲載・本稿第十部「消したくない『ポツンと一軒家』の電灯」参照


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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