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薬屋(薬店・薬局)と私の記憶



            高齢化と医薬の今昔(4)

         ☆薬屋(薬店・薬局)と私の記憶

 最近私の医者通いが増えた、と本章の最初で述べたが、ということは薬屋通いも増えたことも意味する。いわゆる医薬分業が90年代から本格的に進み、医師は薬を処方するだけ、その処方に基づき調剤して患者に渡すのは薬局の薬剤師ということになり、医者がもう薬は必要なくなったというまでは薬店にも通わなければならなくなったからである。
 ところで、今薬局と薬店という言葉を使ったが、かつて私は「薬局」とは大きな病院のなかにあるものでその病院の医師が処方する薬を調剤して渡してくれるところであり、「薬店」とは医院や病院が処方する薬以外の薬、いわゆる売薬・市販薬を売る店のことを言うものだとばかり思っていた。しかし違うようである。
 『薬局』とは、「薬剤師が常駐していて調剤室をもち、医師から処方される薬を調剤・販売する施設」なのだそうである。
 これに対し、『薬店』とは「一般医薬品の販売が認められている施設」で、薬剤師や調剤室はなくともいいのだそうである。この定義だとかつての大病院の薬局がぴったり適合するのだが、薬局は一般医薬品の販売も認められている、つまり薬店を営むこともできるのだそうである。

 そんなことは全く知らなかった。そもそも私の小学校時代(戦中戦後)は薬店の記憶がまったくない。薬は医者からもらうもの、越中富山の薬屋さんが年に一度置いていくものであり、日常的には富山の薬売りの置き薬で間に合わせ、非常時は医者に行って薬をもらって飲むということになっていたからである。富山の薬売りも医者もくれない赤チン、メンタム、キンカン、ムヒ等は近くの小間物屋で買う(と記憶しているのだが)。だから薬店にはまったく縁がなかった、だからなのだろう、幼い頃薬屋に薬を買いに行ったいう記憶はまったくなく、それどころか街の中のどこにどういう名前の薬店があったかという記憶もない。もしかすると忘れただけなのかもしれないが、忘れる程度の存在でしかなかったのではなかろうかと今では思う。

 戦後のいつ頃からだったろうか、富山の薬売りが来なくなった。その頃から、農協が富山の薬売りにかわって置き薬をしてくれるようになった。胃薬から風邪薬、傷薬から痛み止め、絆創膏等々、日常的に緊急に必要となるような薬(もちろんそのころには富山の薬売りが持ってきていた薬よりもずっと質量ともに充実していた)が木製の箱に入っており、一年経った頃に訪ねてきた農協職員に使った薬のお金を払い、同時にその減った分の薬を補充してもらうのである。症状が軽いとき、緊急のときなどはその程度の薬で十分、薬屋などに走らなくてもすむ。
 そんなこともあって、薬屋とはあまり縁がない暮らしが続いた。

 薬屋をまともに知ったのは高校時代(50年代後半)、街の中心部の商店街にあったのを知ったことからと、近くの町から汽車通学している同級生に薬屋の息子がいたことからである。
 そして、薬屋は田舎の町の名士として位置づけられ、医者の息子と同じように薬屋の息子もお坊ちゃん扱いであることを知った。薬屋が一軒しかないからなのか、彼の父の持つ薬剤師の免許がそれなりに位置づけられていたからなのか、彼の家が昔からの土地持ち・金持ちだったからなのか、よくわからない(彼も薬剤師になって薬屋を継いだのだが、今どうなっているかわからない)。。
 それはそれとして、こんなことから薬店には薬剤師が必ずいるもの、でも薬店は医師の処方にしたがって薬を調合することはしないものをいう、とばかり私は思っていた。その後私の知るようになった薬店にもそこの家族の誰かが薬剤師の免許を持っていたからでもある。
 なお、薬以外に化粧品を扱っている薬店も多かった。薬よりも化粧品の方が中心ではないかと思うような薬店もあった。
 ただしそれは戦後かなり落ち着いてから見た薬店の話である。

 ここまで書いてきて、ふと気になったことがある。これまで私は「クスリヤ」を適当に「薬屋」と書いたり、「薬店」と書いたりしてきたが、一体どちらが正しいのかと。そこで調べてみたら、私は大きな間違いをしていたことがわかった。
 そもそも『薬店』とは「一般医薬品の販売を認められているが、薬を調剤することは出来ない、つまり薬剤師のいない店」のことを言い、しかも薬店は「ヤクテン」と読むのだそうである。
 これに対して『薬(くすり)屋(や)』とは「薬店と薬局の総称」であるとのことである。つまり市販の薬を売っていない薬局も薬屋なのである。
 とすると、これまで私の言った薬店のうち薬剤師がいたところはすべて薬局なのであり、富山の薬売りや市販の薬を売っていた小間物屋さんは薬(やく)店(てん)であるということになる。これからは気を付けて言葉を使い分けることにしたい。

 やがて仙台に居をかまえるようになった私は、すぐ近くに医院があるので何かあればそこに行って薬をもらい、そこが休みのときの風邪薬や痛み止め、軽傷のときのマーキロや絆創膏、包帯などはすぐ近くの薬屋から買うということで、薬屋を利用するようになった。そうしたなかで改めて薬屋をみてみると、けっこうな数があった。ご近所の薬屋さんとは顔なじみになったが、ご主人が薬剤師で白衣を着て薬を買いに来た人の相談にのっており(調剤はしていないようだった)、同時に家族といっしょに化粧品を売っていた。また薬剤師のいない薬店もあった。みんな本当に小さい店だった。

 やがて、そうした小さな薬屋がなくなってきた。それに気がついたのは今から20年前ころではなかったろうか。でも、思い返してみればもっと前から、平成に入るころから始まっていたのかもしれない。
 そしてそのころは、全国チェーンらしい「ドラッグストア」(調剤薬局をもち、医薬品と美容に関する商品や日用品等をセルフサービスで販売する大型店舗のことをいうらしい)とか言う巨大な薬屋がぽつりぽつり見られるようになったころだったような気がする。
 もう一方で、「薬局」という名前をつけた小さな店があちこちでみられるようになってきた。そしてそれは必ず医院、病院のすぐ近くにあり、いわゆる薬店のようにいろいろな市販の薬を並べて売っていない。それを「門前薬局」というようだが、まさしく医院、病院の門前にあって、その処方する薬を調剤して患者に販売するところだった。それができはじめたころはたまたま医者から薬をもらうことがなかったので、私は利用することがなく、話に聞くだけだった。なお、その門前薬局(「調剤薬局」と言うのが正しいようだが)のなかにその名称などからして全国チェーンの末端ではないかと思えるところもあった。
 考えてみれば、ちょうどそのころ、つまりドラッグストアと全国チェーンらしい調剤薬局が姿を現したころは、大店法の緩和・廃止のころ、町のなかの小さな薬屋が姿を消していったころでもあった。大が小をつぶしていく、これが薬屋・薬局でも進む、何かいやな感じがしたものだった。そのうち病院・医院まで弱肉強食が進むのだろうか、そうなったとき、患者はとりわけ農山村部はどうなるのだろうか、杞憂かもしれないのだが。

 私が薬局による調剤という変化をまともに認識し、「調剤薬局」を利用するようになったのは、ちょうど網走から仙台に帰ってきて3~4年過ぎたころ(2010年頃)だったと思う。たまたま手首を捻挫して近くに新しくできた整形外科にかかったとき、隣にある薬局(これまた新しくできたところだった)から薬をもらうようにと処方箋を渡されたのである。そのころから何かあって他の医院にかかってもやはり医院のすぐ近くにある薬局からもらうようにと処方箋を渡されるようになってきた。院内処方よりも院外処方した方が診療点数が高くなって医師にメリットが出てきたかららしいのだが。
 やはりその頃からではなかろうか、「お薬手帳」なるものを薬局から渡され、これから必ず持ってくるようにと言われたのは。何でこんな面倒なことをするのかの説明もなしだったので、持って行くのをよく忘れたのだが、つい先日こんなことがあった。
 ある医院からもらった処方箋を持って隣の薬局に行ったら、私のお薬手帳を見た薬剤師がこう言う、名前は違うけれども同じような効能をもつ薬が別の医院からも出されている、それでいいのかどうか医院に電話で確かめるので、ちょっと待ってくれと。数分したら、やはり重複しているので薬は一種類減らすようにとの医師の指示だったということで、薬を減らして渡してくれた。
 なるほど、それでよくわかった。複数の診療科や医療機関に通って薬をもらっている場合、薬が重複してしまうとか、違った種類の薬でも飲み合わせによっては副作用が出てしまうとか問題が起きる可能性もあり、お薬手帳はそうしたことを防ぎ、薬を安全に服用できるようにする役割を果たすもの、薬多用(乱用?)社会では必要不可欠になってきたということなのだろう。
 また、自然災害で被害を受けて避難したときなど、お薬手帳があるといつも飲んでいる薬を確認できるので、処方箋なしでも薬局で薬をもらうことができる等のメリットもあるという。そもそもわが国は災害多発列島、それが地球温暖化でさらに深刻化することが予測れているとのこと、お薬手帳は必携ということになるのだろう。

 医薬分業、かなり前から言われていたらしいのだが、それがようやく日の目を見ることができたということのようである。その善し悪しは私にはよくわからない。また、最近は農山村に行ってお話を聞く機会がないので、それが農山村部にとっていいことなのかどうかもわからない。
 いずれにせよ、今は医薬分業の時代になったようだ。まあ、やむを得ない、さらによいものになっていくことを望むだけだ。面倒ではあるけれど、これから仲良くお薬手帳と付き合っていくことにしよう。

 話は飛ぶが、「手帳」といえば、ビジネス手帳というのだろうか、予定・日程・用件等々をメモしておくための手帳がある。前にも書いたが、この手帳は私にとって定年前までは必要不可欠で、講義・会議・調査・講演等々の予定が時間刻みでびっちり書いてあった。土日も埋まることが多かった。だから この手帳ををなくしたり、忘れたりすると身動きできなくなるので、財布と同様、ポケットに大事に入れて持ち歩いたものだった。
 ところが定年後、そんな必要も少なくなり、とくに手帳がなくとも覚えていられる程度の用事しかなくなった。出歩くことも少なくなった。予定ができても、机の前のカレンダーにチェックしておくだけですむ程度である。
 そこで一昨年、試しに手帳を買わないで見た。それで十分だった。手帳を持たない生活、数十年ぶりだった。
 ところが昨年からそういうわけにはいかなくなってきた。前にも書いたように私の医者通いが多くなった上に家内の病院通いにも付きあう必要が出てきたので、通院予約を忘れたり、薬をもらいに行くのを忘れたりしないように、手帳にでも書いておかなければならなくなったのである。ということで、一年休んだだけで手帳は復活した。来年の手帳もすでに買ってある。これもそのうちいっぱいになるだろう。その内容、役割は大きく変わったが。
 この変わりよう、一人で苦笑いするしかなかったが、手帳とお薬手帳、しばらく仲良くおつきあいさせていただくことになりそうだ。もちろん時間の問題、いつかはともにおさらばということになるだろうが。

 こんな医・薬の話で2019年を終わらすつもりはなかったのだが、これも年齢のせい、来年ももう少しだけおつきあい願いたい。なお、次回は1月13日(月)とさせていただく。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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