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農業生産力の発展(4)

  

             ☆水田二毛作と用畜の導入

 東北の農家は米の増産に力を注ぐだけでなく、水田二毛作の導入にも取り組んだ。食糧不足解決のために行政はもちろん試験研究機関、普及機関あげてそれを推奨したのだが、農民自らも意欲を持って導入したのである。
 こんなことは戦前の東北では考えられなかったことだった。そもそも寒冷地での二毛作は難しいものだったからである。東北のような暑い期間の短い地域で二毛作をすれば収穫や植付けの時期が競合し、水稲・裏作物ともに収量が落ちて虻蜂取らずになる危険性があったのである。とくに主作物の米に悪影響を与える恐れがあったので、小作料を米で取る地主は二毛作にいい顔はせず、なかなか許可しなかった。
 しかし土地は自分のものになった。何でも自由につくれるようになった。そこで自分の土地から米だけでなく他の作物もつくって所得をあげようと取り組んだのである。
 試験研究機関はこうした意欲に応えるべく、そして食糧増産を図るべく、寒冷地における二毛作技術の確立に取り組んだ。二毛作の導入を可能にするための晩植用の稲の品種と肥培管理技術の開発、裏作物の品種や増収技術の開発、表・裏作物が競合しないような技術の確立等に取り組んだ。後でうまい米で有名になるササニシキなどはその過程で生まれたものだった。そもそもは麦の裏作ができるように晩植用を目標に宮城県農試古川分場で育種されたものなのである。
 一方、行政・普及は春の田んぼを麦の緑、ナタネの黄色、レンゲの赤の三色で埋めようと三色運動を展開した。
 こうしたなかで、かつては六月頃まで荒涼としていた田んぼに緑、黄色、赤の三色の縞模様が見られるようになった。
 山形などの日本海側でとくに普及したのが飼料作物兼緑肥作物としてのレンゲだった。雪の多い山形では麦などの実取り作物を裏作にするのは難しかったからである。なお、このレンゲの種は関東以南の地域から購入した。野生のレンゲが東北で見られないことからわかるように、寒冷地ではレンゲは結実しないからである。
 私の生家でも種を買ってレンゲを植えた。ただし、土地条件と労働力の関係、危険分散などから一部の水田にしか植えなかった。

 中学二、三年ころだと思うが、レンゲがかなり伸びた田植え前、牛の餌にするので少し刈ってこいと父に言われ、自転車に乗って田んぼに行った。一人で鎌で刈っていたら、誰かが遠くからこちらを向いて大声で叫んでいる。何を言っているのか、私に対して言っているのかわからないのでそのまま刈り続けた。すると近づいてきた。近所の農家の人だった。私の顔を見て何だというような顔をして笑った。いつも見かけないものが草を刈っているので草泥棒ではないかと心配して大きな声で注意し、さらに駆けつけてまでくれたのである。
 しかし今は、他人の田んぼまで注意して見てくれるような人はいなくなった。
 数年前になるだろうか、滋賀県の稲作地帯で、知らないうちに自分の家の田んぼの稲が刈り取られていた、つまり米が盗まれていたというニュースが新聞やテレビで報じられた。そしてコンバインできれいに刈り取られている写真や映像も報じられた。みんなそれを見て、誰も気が付かなかったのだろうか、知らない人が作業をしていたらおかしいとわかるのではないかと笑う。たしかに以前であればそうだつた。しかし今はわからない。
 かつては自分の家の田畑は自分の家族が中心となって耕作していた。ところが今は作業を他の農家に委託するようになっている。それでよその人が田畑に入っていることが増えてきた。それもまったく知らないよその地区の人が来て作業している場合もある。田畑のわきを通ってもお互いにあいさつもしない。だから、知らない人が近所の人の田んぼに入っていても、だれが何をしていようともとくに不思議に思わなくなってきた。
 こうしたことが稲泥棒を生み出す背景の一つになったのではなかろうか。
 ちょうどその年、滋賀県出身の私のゼミの卒業生が米を送ってきてくれた。御礼の電話で、もしかしてこの米は新聞に出ていた田んぼの米ではないか、犯人は君だったのかと言って大笑いをした。
 ともかくむらは変わってしまった。今は都会並みに「隣は何をする人ぞ」の社会になってきつつあるのである。

 話はもとに戻るが、レンゲは緑肥作物として位置づけられると同時に、家畜の飼料としても重視された。
 ちょうど当時は、毛糸の原料としての羊や飲用乳自給のための山羊の飼育、豚や鶏の増頭羽、乳牛の導入等々、用畜(肉、卵、乳、毛、皮など、人間に有用な資材を生産させるための家畜)の導入による「有畜経営」化がさけばれていたからである。さらにその後、耕耘機導入により不要となりつつあった役牛馬にかわるものとして乳牛導入が推奨されるようにもなった。
 このなかでとくに注目されたのが水田酪農だった。レンゲなどの裏作物や河川敷・畦畔等の草、稲ワラ等の副産物を飼料とし、糞尿は良質堆肥として水田に投入するという水田と用畜の結合は、穀作と畜産の並進という新たな段階の農業発展を展望するものであった。
 さらに、一九五四年の冷害を契機に酪農が山間地帯を中心に導入された。開拓地などの寒冷地帯で麦などの実穫り作物がほぼ全滅したのを契機に、実穫りを目標にしない牧草に依拠する酪農ならば冷害にあっても大丈夫だということで急速に普及したのである。
 それ以前は牛乳は都市近郊の搾乳業者が供給してくれた。いわゆる都市酪農が中心であった。私が仙台にきたときも町のすぐわきの土地で乳牛を飼育して搾乳し、瓶に詰めて販売する中小の業者が市内にたくさんあった。それが農村で農家が本格的に牛乳を生産するようになった。都市酪農から農村酪農へ、本格的な酪農へと発展したのである。
 こうしたなかで畑に飼料作物が植えられるようになってきた。私には「畑に草を植える」というのが何か奇妙な感じがした。草は抜くものだったからである。また人間が食うものではなくて家畜が食うものを耕地で栽培するのがどうしても納得できなかった。家畜は野草などの人間が食えないものを食べるものであるという感覚でこれまで生きてきたからである。人間が食べるものがまだ不足していた時代だったからなおのことだった。それでもデントコーンはとくに感じなかった。トウモロコシなので何となく人間の食糧を生産しているように見えたからであろう。牧草でも普通畑にできないような山間傾斜地を開墾して植えられているのはおかしく感じない。しかし、何百年何千年と人間が食べるものの生産のために大事に肥やしてきた畑を家畜のために使うというのは何とも感覚的に合わなかったのである。

 一九五四年の冷害は、さきに述べたような保温折衷苗代の普及の契機となったが、同時に酪農の本格的な発展の契機ともなった。
 しかしこの冷害は水田二毛作の停滞の契機ともなった。当時の技術水準では二毛作による冷害時の米の減収は抑えられず、それを避けるために二毛作を導入しないあるいはやめるようになってきたのである。それに拍車をかけたのがアメリカからのMSA小麦の輸入であった。この頃から米と麦の価格の差が開くようになり、それが米の増収にのみ向かわせる契機となり、後には麦作の壊滅へと向かわせることになった。そして六三年に品種登録されたササニシキはその本来の目的だった裏作用として用いられることはまったくなく、後に述べるように単なる多収品種として普及することになるのである。


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コメント

[C9]

やっぱりあの米泥棒は彼だったのでしょうか(笑)

懐かしいニュースを思い出しました。
  • 2011-03-09 09:14
  • mayu
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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