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農業生産力の発展(5)

  
              ☆商業的農業の発展と農協

 水田作ばかりでなく畑作の生産力も発展した。農家は、食料不足下で重視された麦・大豆・ジャガイモ、食用油脂の需要増加に対応するナタネ等々の畑作物の生産に力を入れ、化学肥料や農薬を導入するなどしてその生産力を高めたのである。たとえば青森県南部の畑作地帯などは、春は一面の菜の花で埋め尽くされた。その壮大な景観がいまでも語りぐさになっているほどである。
 しかもそのかなりの部分が商品として販売された。戦前の畑作物は基本的に自給用であり、余ったものを売る程度だったが、戦後は小作料がなくなって米が自給できるようになったので米不足を補うための自給用の麦などの生産をする必要がなくなって販売用としての作物や野菜を栽培することが可能になったからである。化学化などによる畑の生産力の向上も販売量の増加に拍車をかけた。
 一方、戦後の混乱がおさまり、大都市の人口も復活し始めた一九五〇年ころから都市の農産物需要が拡大してきた。また、交通事情もよくなり、とくに当時の重要な輸送手段だった鉄道の列車の本数も増えてきた。
 こうしたなかで、自給的畑作から商業的畑作への発展が展望されるようになってきた。

 山形市近郊の農家の場合は、相対的に貯蔵性のある野菜、たとえばトマト、キュウリ、白菜、玉菜(キャベツ)などを東京や仙台に出荷するようになった。毎朝、多いときは牛車で少ないときはリヤカーで山形の貨物駅に運び、そこで貨物列車に積まれて運ばれていった。この出荷形態は戦前からあったのだが、それが拡大されて復活したのである。
 出荷した後の残りとその他の野菜(ナス、ネギ、エンドウ、ホウレンソウ、カブ、ダイコン、青菜〈せいさい〉等々数え切れない)は近くの八百屋が毎日買いにくる。前の日に品物や量を注文していくが、売れ行きによってその日の朝に来て注文を増やす。それでも売れ残るものは、次の朝、駅前の市場に自転車かリヤカーで運ぶ。ときどき私も朝早く起きて市場に運んだ。休みの日などはセリを見てから帰る。自分の家で出したものがいくらになるか、はらはらして見たものだった。金の支払いは次の日からである。中学校からの帰り道に立ち寄り、伝票を市場の窓口に出してその金を受け取ってくるのも仕事だった。
 秋の漬け物シーズンには直接消費者からダイコン何貫目、白菜何貫目と注文が来る。それを牛車に積んで各戸をまわり、おいていく。それも何日か続く。山形最大の花街、「花小路」にある料亭からの注文も多かった。その近くの新築西通りという町で祖母の妹が一銭店屋を開いていたので、その伝手からお得意さんになったようである。

 私の生まれる前は、その花小路で祖母は一種のふれ売り(行商)をやっていたという。祖母の妹から紹介されて料亭から野菜などの注文を受け、それに応じてリヤカーにつけて運んで売っているうち、近くの家からも頼まれるようになり、それからほぼ毎日のように野菜をつけて売りに行くようになったようである。かなり小金が入ったらしい。祖母はそのうちのいくらかを「ほんまづ」(ほまちがね、へそくり)にし、銀行に預けていた。ところが昭和恐慌関連で銀行が倒産し、まるまる損をしたらしい。隠れて貯金をしていたものだから誰にもそれを言うわけにはいかず、相当頭に来ていたらしいと叔父が笑って話していた。
 私が生まれた頃から私の子守りのためにふれ売りをやめたが、漬物用の野菜などは注文を受けて季節になると祖父や父が牛車で運んでいた。また祖母は、料亭のおかみと友だちづきあいになっているためにお茶飲みなどに行き、私もよく連れて行ってもらった。長火鉢の前に座ったおかみからお小遣いやお菓子をもらって喜んでいたが、三つ子の魂百までで私の飲み屋好きはその頃から始まったのかもしれない。なお、祖母は料亭や町中心部の人とのつきあいのなかで新しい料理をさまざま覚えたらしい。町内の農家でライスカレーをつくったのは私の祖母が初めてだったという伝説もあった。なお、カレーライスというようになったのは戦後かなりたってからのことで、かつてはライスカレーが普通の呼び方だった。これについてはまた後に述べる。

 東京の市場には近くの農家で自主的に出荷組合をつくって出荷していたが、農業協同組合を通じる場合と市場の荷受け会社から頼まれて直接出す場合と二つあった。戦後すぐは農協の力がきわめて弱かったので、市場に直接出荷する場合が多かったようである。
 ところがある時、荷受け会社が金を払わないという事件が起きた。何十万円だか忘れたが、当時としては大変な金額であった。父など出荷組合の役員が何回も東京まで取り立てに行ったが、全額回収にはいかなかったようである。
 当時の市場制度は未整備で中小の市場が乱立しており、こうした代金未払いを始めとして事件はしょっちゅうあった。また、情報網が整備されていないために、ある市場に大量にある品物が集まって価格は暴落し、ある市場にはさっぱり集まらず暴騰するとかの問題もあった。いうまでもなく価格は生産している自分たちが決めることはできず、商人のいうままで農家の立場はきわめて弱かった。
 だから価格の暴落はしょっちゅうだった。あれだけ働いたのに二束三文なのである。収穫の喜び、生産の喜びが喜びとならないのである。ある年、近くの農家のご主人が畑の近くの線路を歩いているうちに列車に轢かれて亡くなった。ちょうどそのときは白菜の価格が暴落していた。そのことで頭がいっぱいになって、列車が来るのに気が付かず事故にあったのではないかと悪い冗談話が出るほどの大暴落だった。
 しかも産地仲買から仲卸まできわめて複雑な前近代的な流通ルートが支配している。当然農家と消費者の間の価格差はきわめて大きい。各地の市場がどうなっているか、消費者価格はどうなっているか等の情報も農家に入らないので、ごまかされ、安く買いたたかれる。
 だからといってすべての生産物を農家が直接消費者に売るわけにもいかない。消費者がすぐ目の前にいるわけでもないし、すべて売り切るなどということは商人でさえ大変なのに、片手間でやれるわけはない。販売のために生産のための時間が減ったら虻蜂取らずになってしまう。
 消費者のわがままとつきあうのも大変なことだ。畑で野菜を収穫していると知らない人がその野菜を買い求めることがある。畑が町のすぐ近くなのでそういうことがしばしばあった。たまたま予定以上の収穫があると売ってあげる。母が八百屋さんに売るときの値段をいうと、それで喜んで買って帰る人もいるが、たまにはまけろという人もいる。それが私にはいやだった。これだけ必死になって苦労してつくったものを値切るなんて許せない。母も絶対にまけない。価値のわからない人に買ってもらいたくないからだ。だから私は今でもまけろとは人に言えないし、言いたくもない(大阪の人からは笑われるかもしれないが)。もちろん店の人がまけてくれると言うのであれば、さては値札に書かれている値段はふっかけているのだななどと疑いながら、遠慮なくその好意は受けるが。

 ともかく売るというのは大変なことだ。
 そういうものは農協にやってもらった方がいい。とくに市場や商人と対抗するためには、中間搾取をなくすためには、農家の協同の力しかない。一人一人は小さくともみんな集まれば大きな力になる。そのために出荷組合をつくったのだが、その規模では十分なことができない。もっと大きな規模でみんな協力して販売担当者を雇い、つまり協同の力で販売のプロを産み出し、そのプロに販売を委託しよう。農協はそれができるし、そのためにつくられたものだ。こうしたこと、つまり農協の必要性、重要性が徐々に認識されるようになってきた。
 一方、農協の体制も整備されてきた。一九四七年、きわめて民主的な農協法が制定されたが、当初は米の供出など国の統制経済の末端を担う行政の末端機関としての役割を果たすものでしかなかった。しかもきわめて弱小であり、赤字をかかえて倒産寸前までいく農協すらあった。やがてこうした諸問題が解決され、農協が販売、購買、金融などで大きな力を発揮するようになってきた。政府も農産物や生産資材の前近代的な流通機構の再編整備、農業金融の体制整備でそれを支援した。
 そして、農協の販売・購買事業は商人資本による収奪から、農協の信用事業とそれを補完する農業金融政策は高利貸資本による収奪から農民を解放し、ふたたび小作人に転化することを防ぐと同時に、農業生産の発展を可能にしたのである。

 私の生家の地域も農協に結集するようになった。ただし農協にまかせたからといって何もしないわけではない。農家は農協の下部組織として出荷組合をつくり、農協職員といっしょになって販路をさがし、どういうものが売れるのか、つまり消費者が何を要求しているのかを全国各地の市場や産地の視察などで勉強した。また農業改良普及員や農協の営農指導員とともに栽培技術の向上に取り組んだ。
 当然、市場の信頼、消費者の信頼の必要性も学んだ。ところが、出荷する箱の上の方にはいいもの、下に悪いものを入れてごまかしたりする人もいる。これではきちんとやった農家の価格も下げられるし、市場の信用を失って次回からは全員の価格が安くなってしまう。そこで出荷組合は自主的に規則をつくり、こうした農家に対しては何日間かの出荷停止の罰を与えるなどした。
 こうしたなかで旧山形市の野菜生産は急速に伸びた。そんなこともあって父は山形県野菜研究会の会長となり、野菜振興に飛び歩いた。また市農協の理事としても活動した。忙しいときも農協に行ったり、県の行事などに行かなければならない。しかも近くの農家はもちろん農協職員、普及員、市職員、県内外の農家がしょっちゅう家に来て、時間が取られる。祖父や母はそれが非常に不満だった。農作業がおくれてしまうからである。
 私が研究者になり始めた頃、県内の調査や講演に行くと、何かのきっかけで野菜担当の普及員の方などに私が山形の酒井の息子だとわかり、驚かれることがしばしばあった。

 野菜以外にも山形県では果樹作に取り組んだ。桑畑や普通畑に、あるいは傾斜地を開墾して、ブドウ、サクランボ、リンゴ、モモ、洋ナシなどを植栽した。かつてのように自給用で一~二本植えるのではない。まさに売るために植えた。
米麦は小作料がなくなったことと収量が高まったことから、販売する量が大きく増加した。野菜も商品として栽培するようになってきた。
まさにこれまでの自給的な農業から商業的農業へと展開したのである。私はこれを進歩と考えてきたし、そのこと自体はいまでも正しいと思っている。
 しかしそれは農業者が商人に変わることではない。
 ところが最近、農業者は商業的感覚をもたなければならない、農業者は商人でなければならないとよくいわれる。それも一理ある。商人のように消費者が何を望んでいるかを把握し、それに対応した生産をやることが必要だからである。消費者の要求しないものをつくっても売れないし、何にもならない。しかし、だからといって販売のプロにはなる必要はないと考える。販売に関しては農協のプロといっしょにやればいい。農業者は生産のプロ、職人でいいではないか。
 技術感覚ではなく商売感覚がものをいうなどというのはそもそもおかしいのだ。最近のマネーゲームなどの貨幣感覚がものをいうなどというのはもっとおかしい。商売人だけが、カネを動かすものだけがもうかる社会はおかしいのである。篤農ではなく商人でなければ生きていけない、精農が支配する時代から商人が支配する時代になっているなどというのは、社会が狂っている証拠なのではなかろうか(もちろん商業や金融業が不必要だとか、それを下に見るとか言っているわけではない)。いま工業でも職人がいなくなる、技術者・技能者がいなくなっていることが問題となっている。農業もそうなっては困るのではないか。
 父はまさに農業の職人だったと私は思う。いいものをたくさんつくった。新しい技術を取り入れ、創意工夫に力を注いだ。
 朝仕事を終えて帰る近所の農家の青年が毎朝何人か私の家に立ち寄り、縁側に座りながら父に作物のできについて報告し、病害虫や作業の時期などについて相談していく。そのためにいつも父の朝ご飯が遅れたものだった。こんな風にしても、ともかくさまざまな機会を通じて、自分のもっている知識や技術をみんなに伝えた。
 私はこうした職人としての父に誇りをもっている。しかし不肖の息子の私はそれを引き継がなかった。都市化の進展で生家は農業ができなくなったのでやむを得なかったのだが、それでもそのことがいまだに私の胸をうずかせる。それはそれとして、ともかく技術者としての誇りこそ農業を発展させる力になるのではなかろうか。


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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