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農業生産力の発展(6)



            ☆「循環型」だった農業

 馬糞・牛糞が、村の道にはもちろん町の大通りにも落ちていた。馬と牛が運送手段の中心をなしていたのだから当然のことである。猫や犬の糞と違って臭いもそんなにひどくないし、土の道路がほとんどだからそのうち土に同化してしまう。だから町の人もとくに汚いとも思わず、気にもしなかった。それどころか戦後はそれを大事にした。食糧不足に対応して戦時中につくった庭の畑に入れる肥料として使えるものだからである。戦後すぐの『サザエさん』の漫画に、家の前の道に落ちている馬糞を誰が拾うかをめぐって大騒ぎをする話があったことからもそれがわかろう。
 もちろん農家は家畜の糞尿を肥料として大事にした。だから、家畜を飼育しようとした。そもそも家畜は「用畜」(前にも述べたが、人間に有用なものを生産させるための家畜)、「役畜」(農作業や運搬などに使役するための家畜)として飼育されたのであるが、農業が発展するなかで「糞畜」(糞尿を供給させるための家畜)としての役割を果たさせるためにも飼育されるようになったのである。

 このように家畜は農業にとってきわめて重要なのだが、それを購入するには金がかかる。しかし農家には金がない。とくに牛馬はきわめて高いので規模の小さい農家などはなかなか買えない。この状態を利用してなされたのが、馬小作、牛小作であった。さきに葛巻の例をあげたが、あれを思い出してもらえればいい(註1)。ただし、その貸し主は葛巻のように地主ではなく、馬喰などの家畜商が普通だった。
 なお、この小作は豚でも行われていた。つまり豚小作もあったのである。
 それを初めて聞いたのは宮城県南の亘理町にある旧逢隈農協の調査に行ったときだった。一九六〇年以前に「貸し豚」というのがあったというのである。博労などの商人が農家に子豚一~二頭を貸し付けるもので、雌豚の場合の小作料は子豚である。つまり、商人は最初に生まれた子豚を小作料としてもっていく。二産目以降の子豚には商人がお金を払って引き取る。親豚が使えなくなったら商人が引き取り、その目方によって農家にお金を払う。つまり豚並びに子豚の所有権は商人にあるが、二産目以降の子豚と親豚を太らせた分だけが小作人の所得となる。雄豚を貸す場合は小作料はなく、大きくなったら商人が引き取り、その目方によって農家にお金を払う。当然商人の言いなりの値段で安く買いたたいて引き取られ、小遣い稼ぎくらいにしかならない。まさに前近代的な流通のもとで収奪されていた。しかし残飯や農産物の屑、こぬかなどの利用が出来るのでえさ代はほとんどかからない。しかも糞尿が肥料となるのでそれも魅力である。それなら子豚を自分で購入して大きくすればいいではないかと思われるが、牛馬にくらべて値段の安い豚でさえ購入できるゆとりはなかったのである。さらに、当時の畜産物の前近代的な流通のもとでは、成豚や子豚を結局はこうした家畜商に販売して買いたたかれるので、自ら所有して飼育してもとくに変わりはないこともあった。
 こうした状況は一九五〇年以降展開された有畜経営化政策のもとでの融資や補助事業の展開、流通機構の改革等で少しずつ変えられ、家畜小作などはなくなってくるが、それが本格化するのは一九六〇年以降の農業基本法農政になってからであった。後に述べるようにこれで家畜頭数は大幅に増えた。ただし、それで得られた糞尿は耕地に返されず、糞尿公害すら引き起こし、しかも家畜の餌は外国からの輸入というさまざまな問題を抱えるものだった。

 かつての家畜の飼料は山野草、畦畔草、わら、穀物や野菜の残滓物、食事の余り物などであった。そしてそれが家畜を通して糞尿となり、さらにそれは良質の肥料となった。
 つまり、山林原野、畦畔等の耕地以外の土地からの養分を家畜を通して糞尿とし、それを肥料として散布して耕地の地力を増進し、耕地から農産物として収奪した養分のうち人間が使うものを除いて余すところなく家畜の飼料=糞尿にして耕地に返して地力を維持しようとしたのである。
 それから人糞尿を通じても耕地から得た養分を耕地に返そうとした。人糞尿は最高の養分をもった速効性肥料だったからである。それで都市の人糞尿も利用した。さきに山形の生家の地域の例をあげた(註2)が、これは江戸時代の大都市の江戸や京都でも同じであり、この都市人口の出す人糞尿が自らを養う野菜等を育てる補助材料となったのである。
 つまり糞尿は廃棄物、不要物ではなかった。自然の力を利用している農林漁業を起原とするものには廃棄物、不要物はないのである。
 今言った人間の排泄物を例にとって考えてみよう。たしかにそれは人間の身体にとっては不要物である。それで排泄する。その排泄物なるものは農業に起源をもつ。土から取れた農畜産物、つまり土壌の養分が人間の体を通じて変化したものなのである。それを土に返せばもとの土壌養分に戻る。そしてもとに戻すことによって地力は回復する。人間にとっては不要物として排泄しても、自然にとっては不要物ではないのである。

 そもそも自然それ自体には不要物という概念はない。我々が不要物と考えてしまいがちな動物の糞尿や死骸、倒木など枯れたり腐ったりした植物も自然にとっては不要物ではない。こうしたもの、つまり土から生まれたものは自然のうちに土に帰る。そしてその土がまた動物や植物を産み出す。つまり動植物は自ら微生物の力を借りて腐ることにより、あるいは排泄物を通じて土から取った養分等を土に戻すことにより、また土から生まれるのである。これが自然の循環システムであり、不要物と我々が考えているものも自然にとっては必要不可欠のものなのである(註3)。
 それを学んだ人間は、林野等から落ち葉や枯れ草、生草を取ってきて堆肥にし、田畑に投与するという形で土に返し、作物を育ててきた。とくにそれは畑作地帯や山間部では必要不可欠のものであった。

 生ゴミや人間が食用等にしない残滓物も同様に不要物ではなかった。腐熟させて堆肥として土地に返してきた。あるいは家畜のえさにしてその排泄物を土に返し、またその家畜を人間が食べ、人間がその一部を排泄することにより土に返す。こうして土から取れたものは土に返してきた。
 もちろん、生ゴミとか残滓物はできるかぎり出さないようにした。たとえば農産物はすみからすみまでさまざまな形で利用した。余った野菜は漬け物にしたり、間引きしたものも食用として利用した。食べ物ばかりでなく、その他の生産・生活資材、たとえば古材や古着、古紙等々もゴミにはしなかった。さまざまな形で再利用した。どうしても使えなくなったときは燃料源とし、それでできた灰分は田畑に戻した。ともに土から取れたもの故に返せるのである。まさにリサイクルしていた。
 当然のことながら鉄等の非農業産品もすべて再利用した。生産量が少なかったからとくに大事に使った。こわれても鉄製の農機具は鍛冶屋が修理してくれたし、金属製の生活用品は、たとえば鍋釜などに穴が空けば、近くの鋳掛け(いかけ)屋が直してくれた。再利用しないのはこわれた瀬戸物ぐらいのものだった。まさに高度のリサイクル社会だった。
 したがってゴミ、不要物はほとんどないといつてよかった。家畜糞尿は今のように処理に困る不要物ではなかった。自給飼料にもとづいた小規模畜産であったことから土地に十分に返せるし、それどころか堆肥の確保のために家畜を飼育した。家畜糞尿は必要物だったのである。そしてそれが循環する。
 都市の生ゴミも農業で利用した。仙台などでは養豚農家が二日に一度ずつ都市部の家々を回って歩いて生ゴミを集め、それを煮て豚の餌にしていた。いわゆる残飯養豚がなされていたのである。
 また、当時の都市ゴミには、分解して土地に帰ることのないプラスティックが今と違って入っておらず、金属屑やガラスのかけらもほとんど入っていなかったので、それを堆肥としても利用した。
 なお、私の生家と近くの農家は、私のもの心ついたころは都市のゴミを「温床」の発熱源として利用し、さらに使い終わって腐熟したゴミを堆肥として利用していた。

 温床とは、人為的に地温、気温を高める仕組みを備えた苗床(=苗を育てる場所)のことである。この温床で、早春のまだ寒い時期に野菜などの幼苗を育てて寒さの害を防ぎ、生育を速めるのである。そして、大きくなった苗(成苗)を外気温が高くなった頃に露地の本畑に移植する。こうして、直接本畑に播種した場合よりも安定多収を図り、さらに早期に収穫できるようにする。こういうものなのだが、その温床の発熱源として都市ゴミを利用していたのである。それを戦後の山形市周辺の農家でなされていた事例で紹介してみよう。ただし記憶でしかないのであまり正確ではない。
 春、雪解け後すぐに屋敷畑の土を、南・北側二間=3.6㍍(三間の場合もある)×東・西側四尺=1.2㍍の長方形に20㌢ほど掘る。掘り終わったらその内まわりに木の枠を敷設して四方を囲う。木枠の高さは北側が高くて約50㌢、南側は約30㌢と低くなっている。したがって東側と西側の木枠は斜めになっている。日当たりがいいようにするためである。こうして木枠の囲いができたら、その底の土の上にまず稲わらを敷く。その上に都市ゴミを入れる。毎年春になると、市役所のゴミ収集車(大八車)が町で集めたゴミを屋敷畑まで運んで持ってくるが、それを入れるのである。それを踏みつぶしてならし(その後にダラ=下肥や米糠を散布したような気がする)、その上にまたわらを敷き、さらにその上に籾殻を敷き、15㌢くらいの厚さで土を入れる。このように、わら+都市ゴミ+わら+籾殻+土で苗床をつくり、この上に、つまり木枠の上に油紙を張った障子を四枚かける。これで温床のできあがりである(この温床の大きさや数は農家により若干異なる)。その温床の外の両脇から手を伸ばしながら播種などの管理作業をする。



南                                            北

                               
 この温床の暖房は、石油や電気ではなく、わらと都市ゴミが微生物により分解される過程で出す熱である。わらと都市ゴミは養分としてではなく、発熱材料用、暖房用として、その発酵熱をエネルギー源として利用するのである。これでかなり地温が上がる。その熱を、上にかぶせた障子で逃がさないようにする。その障子には雨水を通さない油紙(後にはビニールが使われた)を貼ってあるので、春先の冷たい空気や雨、霜にさらされることなく太陽熱を利用することも可能である。これでさらに温床内の地温、気温が上昇する。晴れた日などは熱すぎて障子をはがして温度を下げることもある。といっても、夜はやはり冷えてくる。そこで、夕方近くになるとその障子の上にわらでつくった菰(こも)をかけて夜から朝にかけての低温と霜を防ぐ。朝になるとその菰を外す。こうして保護するから本畑に直播するより早く播種できるし、成長も早い。こうして一定の大きさまで育てた苗を本畑に移植する。そのころはもう暖かくなっているから、成苗は寒さの害を受けることなく、強くなった太陽エネルギーを徹底して利用して早く成長できる。
 こうして移植してしまうと温床は不要となる。そこでそれを解体し、普通畑に戻す。そのとき、温床の下で腐熟している都市ゴミやわらは良質の完熟堆肥となっているので、それは掘り起こされて別の畑に投与される。都市に持ち出された農業起源のものが土に返されるのである。なお、木枠や障子などは来年も利用するために取っておく。

 私の生家では、この温床でキュウリ、トマト、ナス、トウガラシなどの野菜の苗を育てた。子どもだった私は、温床を掘るのはもちろん、温床に使う障子の桟に糊をつけて紙を貼り、その紙に暖めた菜種油を塗って油障子(油をひいた紙を貼ってある障子のこと)を完成させるなどの手伝いをした。また、夕方障子の上に菰をかぶせ、朝それを外すのは、子どもの仕事だった(註4)。
 こうして育てた苗の大半は本畑に定植されるが、一部は近在の農家や八百屋、種屋などに苗として売られた。とくに植木や苗木の販売で有名な五月初旬の薬師神社のお祭りのときには、そこに出店する人が大量に買いにきた。また、近在の農家のなかにはこれだけの本数を売ってくれと温床をつくる前から予約注文して買いに来る方もいた。
 本畑に定植されたものは当然のことながら露地植えよりは成長が早く、収穫も早い。早い時期の生産物は初物として高く売れる。また、きめ細かい管理のもとで育てられたために苗は健康だし、一定の大きさに達している苗なので遅い時期に直接畑に種を播いて育てた小さい苗よりも太陽エネルギーをより多く活用でき、早く大きく育つ。だから収穫量も多い。この生産物が山形市内だけでなく仙台や東京に出荷されたのである(これについてはまた後に述べる)。

 温床は、いまの温室やビニールハウスと似ている部分もあるが、次のような点で決定的に異なっている。まず人間が中に入れるような建物ではない。また、施設、暖房資材などの生産資材はすべて農山村・農林業起源である。今の工業起源のプラスチックや鉄骨による施設、石油暖房とは違い、施設は木、紙、植物油、暖房は生ゴミ、わら、籾殻だった。したがってそこで出てくる廃棄物はすべて農業的に再利用されることになる。
 まさに温床は循環型農業、リサイクル農業の典型であり、省エネ、省資源農業ともいっていいだろう。
 つまり、五〇年代は、化学肥料、農薬の多投などが始まりつつあった年代ではあったが、温床や人糞尿利用などに見られる循環型農業、リサイクル型農業もなされていた年代でもあったのである。
 ただし、この循環型農業には限界もあった。まず、都市ゴミの利用は春先だけであり、それ以外の時期は焼却されていた。また、密閉された温室のなかの作業と違ってハウス病はないが、温床づくりには労力が非常に多くかかる。当時の循環型農業はすべて過重労働であり、人間労働の酷使につながったのである。しかも不潔、不衛生である。とくに人糞尿にはハエ、寄生虫、病原菌が付き物であった。さらにダラ汲みは農民差別の蔑称ともなった。
 したがって、こうした諸問題を解決しつつ、リサイクル型農業をさらに発展させていくことが当時の課題であった。
 しかし、六〇年代から本格化するエネルギー革命の名のもとで進行した石油依存社会への転換、プラスチック等の分解困難な物質の生活廃棄物への混入等は、その課題の解決どころか循環型農業の壊滅へと導くのである。
(次回掲載は15日〈火〉とし、「☆残っていた焼畑農業」について述べさせていただく)

(註)
1.11年2月24日掲載「☆農地改革と岩手の山村」参照
2.11年12月11日掲載「☆足踏み脱穀機止まりの機械化」参照
3.動植物の排出する酸素や炭酸ガス等も動植物に再び利用される等、他にも循環しているものがあるが、ここでは説明を省略する。
4.11年12月17日掲載「☆本格的な農作業と技能の伝承」参照


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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