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再開にあたって


         ☆本稿の再開にあたって

 東日本大震災の日から明日でちょうど二週間になる。
 でもそれは数えてみればそうだというだけで、一体何日たったのか、短かったのか、長かったのか私にはわからない。何か夢を見ているような、まだ呆然とした気持ちでいる。と言っても、私の被災の体験などは津波に襲われた地域の方々とは比較にもならない。被災の激甚だった地域の方々はどんな気持ちでおられるだろう。

 前回の三月十一日の掲載記事のなかで、たまたま宮城県亘理町の事例を取り上げた。奇しくもその日、この亘理町と隣の山元町の亘理郡は大津波に襲われた。ハウスが、さらに家が流され、農家の方も多数亡くなられたようだ。県内の野菜生産の先進地だったところが何ということだろう。一九六〇年代から積み上げてきたイチゴの大産地はどうなってしまうのだろう。
 宮城県歌津町(現・南三陸町)泊浜の麦作組合の方たち、おいしいあわび、きれいな海岸はどうなっているだろうか。八〇年代に漁家が麦作の復興に取り組み、農漁業複合、地域活性化を推進した事例として本稿の第二部で取り上げようと思っていた地域なのだが。

 テレビやラジオから流れるニュースで津波に襲われた市町村の名前を聞く。
 そのたびに、調査や講演でお世話になったときのこと、そのときさまざまなことを勉強させてもらったこと、地域特産のおいしいものをいただきながらお酒を酌み交わしたときのこと、そしてそれぞれの地域の特徴ある家々や役場、農協のたたずまい、田畑、林野、山々、河川、海岸の景観等々が脳裏をかけめぐる。
 そこが大きな被害を受け、変わり果てた姿になっている。もう言葉も出ない。出るのはため息と涙だけだ。

 人生七十五年のほとんどを過ごした故郷東北のうちの東半分、さらに半世紀の長い間暮らした宮城県、そこが見るも無惨な状況に陥れられ、みんな苦しんでいる。胸がかきむしられる思いだ。
 じっとしていられない。被災地に行って何かお手伝いしたい。しかし、この年寄りが行っても何の役にも立たず、それどころか迷惑をかけるだけだ。
 私のやれることはできるだけ迷惑をかけずにひっそりとしていることなのだろうか。せめて、ブログの再開でお役に立つことができないだろうか。

 古い資料が消失してしまった地域も多々あることだろう。またそれぞれの地域のかつてのことを記憶しておられる方のなかにはお亡くなりになった方もいるかもしれない。
 そうなると、今回の震災については詳しく語り継がれても、それ以前の当たり前だった日常の暮らし、農業・農村の歴史について語り継がれることが少なくなる危険性もある。
 そうなればなおのこと、各地のかつての姿の一部でも知っているものが忘れないうちに語っておくことも必要なのではなかろうか。その昔の暮らし、さまざまな問題を抱えつつもそれを解決して得た幸せ等々を記録しておくべきではなかろうか。
 もちろん、非日常生活が続くなかで本稿を読まれる時間のない方、機器が壊れて読めない方もあろう。ましてや激甚被災地の方はそうだろう。しかし、このブログに記録してさえおけばいつかだれかが読んで参考にしてくれるかもしれない。

 村々の、町々のあの平和な姿がある日突然目の前から消失する。
 考えもしなかったこと、信じられないことが突然起きる。私にもいつ何が起きるかわからない。ましてやこの年齢だ。東北の村々についての語り部としての役割をいつ果たせなくなるかわからない。
 書けるうちに書いておかなければ、一刻も惜しんで書き残しておかなければならないのではなかろうか。そしてそれが震災による被災者への務めなのではなかろうか。もちろん、そんなことは二万人を超すとも言われている命の犠牲者に対する鎮魂にも、被災者への直接的な支援にもならないだろうけれども。

 まだ非日常が続いている。私のところでさえそうなのだから、激甚被災地などについてはいうまでもない。こんなときに本稿を書き続けるというつい二週間前までの日常生活に戻っていいのかと疑問になる。
 しかし、こうしたときだからこそ一つでも二つでも日常に戻るべきなのではなかろうか。そしてそうした日常の復活の積み重ねのなかで、非日常の生活が解決されていくのではなかろうか。
 そう考えるとやはり執筆を再開すべきなのではなかろうか。自宅の後片付けは少しずつやっていくことにしよう。そしてこの執筆で私の気持ちも立ち直らせてもらおう。

 今回の震災は自然のすさまじい力を見せつけた。
 ある人は今回の震災を「想定外」と言う。たしかにそうである。しかしそれは人間にとってであって、自然それ自体には想定外などという言葉はない。そもそも自然は想定外のものであり、わからないことだらけなのである。そこで人間は、想定外を想定内のものにするために自然の法則性を明らかにし、自然の偉大な恵みを利用し、自然の猛威を回避すべく努力してこれまで生きてきた。
 とりわけ自然の影響を直接受ける農業をいとなむ農民は、自然の力に対処するためのさまざまな知恵を蓄積してきた。その一部を本稿で紹介してきたのだが、今後に生かすためにもその紹介を継続する必要があるのではなかろうか。

 今回の震災はまた、原発安全神話の崩壊という人災をも見せつけた。
 広島、長崎で原爆の怖さを世界に教え、今度は福島で原発の怖さを世界に教える、なぜ日本は二回も世界の実験材料、教材にならなければならないのだろうか。
 原発事故は想定外だった、地震・津波がもたらしたのだからあれも自然災害だとある人は言う。しかし、地震国における原発の危険性については多くの人が指摘してきたところであり、今回の被害は「想定内」のことだった。にもかかわらず、政財界はその人間の知恵を軽視して建設し、運転してきた。その結果がこれである。まさに人災、いや政災だったのである。
 そして農業生産者は、避難させられたばかりでなく、野菜が汚され、牛乳が汚され、さらには土が汚され、大きな打撃を受けている。さらには風評被害まで起きている。これは政災としか言いようがない(もちろん事故処理に直接当たっている方々や消費者もその政災を受けているのだが)。
 農業は、自然によってばかりでなく、政治によっても動かされてきた。戦後の一時期はそれがプラスに働き、その後は衰退の道へと農業を追い込んできた。この政治経済とのかかわりについても本稿で述べてきたが、東北各地の農業、農村が政財界にどう動かされ、どう対応してきたかも、私なりの視点からということになるが、やはり書き残しておき、それをこれからに生かしてもらったらいいのではなかろうか。

 ただし、今回の大震災について述べることはやめよう。まだ生々しい現実であり、歴史として語るまでには至っていないからだ。
 また、大震災にかかわる私の体験についても述べないことにしよう。いくら異常な体験とはいえ、激甚被災地の方のそれと比べたらとるにたらないこと、語るにも値しないことだからだ。
 もちろん、論述の関係上どうしても触れなければならなくなる場合もあるかもしれないが。

 こんなことをいろいろ考えた末、明二十五日から掲載を再開することにした。土日はこれまでと同様に休載させていただく。
 ただし、激しい余震がいまも続き(これを書いているこの瞬間にも大きい揺れが来ている、慣れたけれどもやはりいやなものだ)、ライフラインの完全復活がまだなど非日常が続いているので、また一時休載することがあるかもしれないが、そのときはお許し願いたい。

 今、私の家の近所には全国各地から電気、ガス、水道の緊急復旧工事をしてくれる援助隊が来てくれて、寒い中、朝早くから夕方暗くなるまで、復旧にあたってくれている。頭が下がる。涙が出てくる。家内が家の前で雪の中ガス復旧工事をしてくれていた方々にコーヒーを沸かしてあげたら、寒さが吹っ飛ぶと喜んでくれたが、感謝の気持ちはそんなことで表し切れるものではない。
 また、全国各地の友人や農家の方々からは心温まる励ましをいただき、郵送の大変なところ生活必需品を送っていただいたりもした。
 この場を借りても、全国各地の方々のご支援に、また友人、知人に、改めて心から感謝させていただきたい。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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