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農業生産力の発展(7)

  

            ☆残っていた焼畑農業

 これまで述べてきたように、一九五〇年代は水田作、畑作ともに新しい動きを見せていたのであるが、戦前からずっと変わらない農業もあった。当時は焼畑のような農業がまだ残っていたのである。
 このことに私が最初に気がついたのは、一九七三(昭和四十八)年、岩手県二戸市上斗米集落の調査に行ったときであった。青森県境の奥羽山脈の中腹に位置し、そもそもは畑作を中心に若干の水田を経営してきた集落であったが、調査に行った頃は農家がたばこ作専門と酪農専門に二極分解しつつあった。この集落の全戸を対象に戦後の農地移動の調査をしたのだが、一九五五(昭和三十)年の農家台帳をもとに田畑一筆毎に調査するというきわめて大変な調査だった。
 その過程でふと気がついたことがあった。農家の方は水田面積の変化についてはきわめて正確に答えるが、畑面積の変化となると、家の近くにある畑のことと最近のことは別にして、非常にあやふやなのである。そこで、農家台帳では約二十年前の五五年頃にはこういう番地のところにこれだけの畑地を経営していたことになっているが、それでいいのかと確かめてみた。すると、そんなに経営していたかなあ、そんなところに畑があったかなあと首をかしげる。何戸かが同じような答えをするので、農家台帳をよくよく見直してみた。農家がわからないと答えた畑地の地番を地図で見てみたらかなりの奥山にあること、さらにその畑地の備考欄に「かの」とか「かの畑」とか薄く鉛筆で書いてあることに気がついた。そこで「かの」とは何かと聞くと「焼畑」だという。後で調べてみたら「かの」は「火野」とも書くという。
 それでわかった。農業委員会が調査した五五年にはたしかにその土地を畑地として利用していた。だから農業委員会は台帳にそう記載する。しかし農家にとっては三~四年焼畑栽培して山に戻し、そのまま畑として利用しなくなったので、その土地を畑地だとは認識していない。家の近くの「常畑」(畑として常時利用している土地)は畑地として認識しているが、焼畑は林野なのである。要するに行政と農家の間の畑の認識の相違と焼畑の中止が畑面積の変化の把握の困難を引き起こしていたのである。
 それはそれとして、少なくとも五五年頃までは焼畑があったということが初めてわかった。焼畑などはとっくの昔になくなっていたとばかり思っていたので驚いた。
 それではどのような焼畑方式をとっていたのか。現地で聞く時間がなくなってしまっていたので、大学に帰ってから図書館で調べたが、岩手ばかりでなく全国各地の山村にさまざまな方式があり、岩手県の代表的な一例として次のようなものがあげられていた。まず七~八月頃、草や木を伐り倒し、そのまま放置しておく。翌年五月、火入れをする。焼いた翌日耕起する。そして大豆をまく。翌年はアワ、三年目はヒエ、四年目はソバを植える。それで作付けはやめる(「そらす」という)。そして六~七年放置し、また草木を伐り倒し、その翌年にそれを焼いてまた畑とする。
 もちろん調査に行ったときにはもうやっていなかった。六〇年代に入り、酪農・葉たばこの導入、開田による水田面積の拡大、出稼ぎの進展のなかで、奥山を焼畑として利用しなくともよくなり、あるいはできなくなり、やめてしまったのである。
 一度は焼畑を見てみたかったと残念に思っていたが、それから二年後の七五年、山形県庄内地方の温海町(現・鶴岡市)で見る機会を得た。
 みぞれの降る日、町役場の案内で調査農家に向かう途中、葉がすっかり落ちた枯れ木ばかりの山の傾斜地に緑豊かな開けた場所があり、そこで二、三人の人が何かしている。何だろうと聞くと、焼畑に栽培した温海カブ(漬物用の赤カブで非常においしい)の収穫をしているのだという。それでそこに寄り道してもらった。歩くと焼畑の土はふかふかとして柔らかい。だから収穫はしやすいし、カブは柔らかくて高く売れるという。こんな話を農家の方からいろいろと教えてもらったが、本当に勉強になった。
 最近は衰退傾向をたどっているが、まだ細々ながら焼畑は続いており、その保存運動もなされているという。ぜひともこうした伝統的農法を残してもらいたいものだ。

 後で気が付いたことだが、日本に残っていた焼畑式はかなり進歩したものだった。
 焼畑を通じた地目交代(山林と畑の交代)と、地力の消耗作物(ヒエ、アワ)―維持作物(ソバ)―増進作物(大豆)の作目交代、つまり輪換体系と輪作体系とが結合した土地利用方式だからである。より高度の地力維持方式ということができる。
 また、この焼畑と常畑とが併存していたこと、しかも焼畑は山間の奥地、常畑は集落の近傍というように地理的に離れていることも、当時の生産力段階と日本という風土に適合した土地と労働力のきわめて合理的な利用方式であることを示すものであった。すなわち、近くの畑は常畑として輪作体系をとって集約的に栽培する。これに対して、遠隔の土地でそんなに通えないところは焼畑で粗放的に作物を栽培する。このように土地条件の違うところをそれぞれ集約度を違えて使い分けている。
 このように、この土地利用方式は、交通手段がなく道路も未整備で歩くより他ない段階に、また手労働段階に適合していた。さらにわが国の山間傾斜地の多さにも適合している。しかも、畑として利用可能な土地をすべて活用し、労働力をうまく利用して多くの生産をあげることを可能にしているという点で、日本の風土を生かしてもいる。まさにきわめて合理的な、きわめて高次の土地利用方式であったと評価することができよう。
 なお、入会地の秣(まぐさ)場つまり草地、放牧地はもっと山奥にあり、さらに粗放的に利用されていた。したがって、常畑・焼畑・秣場と集約度の異なる三種類に分けて農用地を使っていたということもできるだろう。
 これをもう一度見直し、現在の発展した生産力を活用して、再構築していくことは考えられないだろうか。わが国では山間傾斜地の多さを生かしていくより他ないからだ。日本は土地が狭いから農産物は輸入せざるを得ないとよくいわれる。しかし、その狭い土地を農業的に十分に活用もしないで輸入を進め、途上国の人々の飢餓問題に拍車をかけていいのかということを考えるべきだろう。
 しかし、現実には百万㌶をこすといわれた秣場の大半は荒廃し、牧場や草地として開発されたところも荒れており、焼畑はどこにあったのかもわからなくなっている。それどころか常畑さえ耕作放棄され、荒れ地化している。かつては考えられなかったことがいま起きている。

 実を言うと、私は四十歳過ぎまでヒエ(稗)を見たことがなかった。キビ(黍)やアワ(粟)は生家の前の畑で戦時中少し作っていたので見たことはあったが、ヒエ(山形の生家近くでは「ヘえ」と言った)といえば水田に生える雑草(和名ではタイヌビエ・田犬稗)で稲の大敵であり、小さい頃は食用のヒエがあるなどとは思ってもいなかった。ところが岩手県にはかなりあった。私が調査に行き始めたころの一九六四年でさえ統計では二戸地方で二千㌶以上つくっていた。しかしその後急減した。米麦などの食糧が豊かに出回るようになり、また開田も進み、さらに出稼ぎで収入を得ることもできるようになったので、ヒエをつくったり食べたりする必要はなくなってきたのである。そしてゼロに近くなってきた。それで調査に行っても見られなかったのだが、本や農家調査のなかで南部の畑作地帯ではヒエ―麦―大豆という二年三作の輪作体系をとってヒエを栽培していたことを知った。それは南部駒や日本短角牛の畜産と結びついた当時としてはきわめて合理的な輪作体系であった。
 ところで、ヒエの播種の時にボッタ播きというやり方をするのだが、農家の方からどんなものだかわかるかと言われた。本で読んだ通りに家畜や人間の糞尿にまぶした種子を畑にまくのだろうと答えた。すると農家の方は、たしかにその通りだが、糞尿は固形ではなくて液状であり、それに入れた種子を播くので、身体中が糞尿まみれになるのだと笑って話してくれた。

 七〇年代後半に岩手県の山間部に行ったとき初めてヒエを見た。減反の転作作物として水田でヒエを栽培していたのである。米余りの時代に何でヒエを食べるのかと思ったら、鳥の餌として売るのだという。人間の重要な主食だったものが鳥の餌になるとはと何か奇妙な感じがした。
 ともかくかつてヒエしか食べられなかった地域の農家が米を食べるようになったことは喜ばしい。しかし、伝統的な食と農業が捨てられてしまったことも何となく寂しかった。
 最近になって雑穀が改めて見直されているようだが、それは米がだめな食べ物だからだなどと短絡することなく、米も含めた日本型食生活の高次の段階での復活、発展として見直しを進める必要があるのではなかろうか。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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