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農家生活の向上(1)

  

            ☆台所・風呂の改善

 これまで述べてきたように、農業技術は農家の強い意欲のもとに大幅に改良され、農業生産は戦前水準を上回るにいたった。それを支えたのは、一九五〇年代前半、制度的にまた実質的に整備された農地制度、食管制度を中心とする価格支持制度、土地改良制度、農協制度などであった。そしてそれはそれ以後の農業発展の基礎となった。
 しかし、生活の改善となるとそうはいかなかった。家事を直接的に担っていた女性の力はまだまだ弱かったからである。
 そこで農政当局は、農業改良普及事業のなかに生活改良普及事業を位置づけ、農家の衣食住、保健衛生等の改善を図ることにした。
 とくに力を入れたのが台所改善だった。暗い煙い台所で働く婦人の姿は封建制の最たるものである、女性解放の第一歩は台所・カマドの改善からだとして普及に力を入れたのである。そして衛生的でしかも働きやすい台所につくりかえようとした。ただし当時は農村部に水道はまだなく、水汲みの不便は変わりなかった。また、炊事のための燃料も変わりなく、薪、炭、わら、籾殻等であったが、それが効率よく燃え、煙が家に充満したりすることのないようなカマドに作り替えた。

 私の生家では、便所の不潔さと風呂の寒さを改善するのがまず第一だという父の考えから便所と風呂を作り直した。外便所であることは変わりなく、当時のことだから水洗などということは考えられなかったが、風呂も便所も中はタイル貼りにし、外見は家のつくり以上に立派だと友だちから冷やかされるほどに大きく変えた。
 この風呂の改善にともなって私の家の鉄砲風呂は焚き口を下にする風呂に変わった。この鉄砲風呂の焚きつけの難しさについて前に書いたが(註)、この話を山形大にいる若手研究者のST君にしたとき、鉄砲風呂とはどういうものか、五右衛門風呂とは違うのかと聞かれた。もしかするといまの若者はわからないかもしれないと思ってはいたが、改めていかに時代が急激に変わったのか、私がいかに年をとったのかを感じながら、次のように説明した。
 「木製の風呂桶(一般的には楕円形)の片側の端に煙突状の鉄製の筒(これを鉄砲という)をたてに通し、この鉄砲の中で薪や炭、亜炭などを燃やし(鉄砲の下の方の穴にはすかしがおいてあり、燃料が落ちないように、また空気が下から入るようになっている、なお鉄砲の上の方には煙突がつけられ、外に煙が出て行くようにしている)、鉄砲に触れた風呂の水が熱せられることでお湯を沸かすお風呂」だと。
 といっても具体的なイメージがわかないかもしれないので、インターネットで探せば写真が見られるかもしれないとも言った。
 二、三日して彼からメールがきた。ネットで写真を見てわかった、さらに関東では「鉄砲風呂」、関西では「五右衛門風呂」が普及したということもわかったと。彼の出身地は島根県なので、五右衛門風呂だった。お祖父さんの家で小さい頃入った記憶があるという。したがって、彼が鉄砲風呂を知らなかったのは、私との「世代間ギャップのためではなく、『出雲にはなかった(少なかった)』ためであると思われます」と、高齢化を気にしている私を慰めてくれた。
 実を言うと、小さい頃の私は五右衛門風呂を見たことがなかった。ただ弥次喜多道中の話に出てくるのでどんなものかは想像できていた。ただしそれは江戸時代のもので、もうなくなったものと思っていた。大学院に入って宮城県内を調査したときに初めて五右衛門風呂を見た。家内の実家もそうだった。農村部にはあったのである。つまり五右衛門風呂は東にもあった。ただし仙台の街のなかでも、山形内陸部でも見たことがない。どうしてこんな違いが生まれたのかはわからない。

 この話を、農水省の研究機関を定年退職した研究者KK君にしたら、彼も鉄砲風呂を知らないと言う。同じ東北の弘前市郊外の農家の生まれであり、十歳くらいしか年齢が違わないので、当然知っているものとして話をしたのだが、まったく知らないのである。それではどのような風呂だったのかと聞いたら、循環式風呂だという。しかしそれは私の記憶では一九五五年ころから普及し始めたものである。それに変わる前はどうだったのか聞いた。そしたら、それ以前は風呂はなかったという。彼の家ばかりではなかった。約百戸からなるかなり大きな集落だが、個人で風呂をもっているのは一戸もなかったというのである。それでは入浴はどうしたのかと聞くと、集落のなかに銭湯が一戸あり、そこにみんなが入りに行ったという。
 銭湯は町にあるものと考えていた私にとって、村に銭湯があったというのは初めて聞く話でびっくりした。
 銭湯の有無は別として、風呂をもたない農家はかなりあった。私の家のまわりでももたない農家があった。そしてもらい風呂をしていた。もっている家でも、水くみの大変さや燃料の節約等から毎日風呂をたくなどということはなかつた。
 ほとんどの農家が風呂をもつようになったのは、一九五〇年代以降のことであった。

 生活用水だった川の水、井戸水は徐々に水道水に変わってきた。農村における上水道の整備に政府が力を入れたからである。水道の敷設料や水道料も農家が払える程度の水準になってきた。
 私の生家も水道をひいた。台所や風呂場まで井戸から水を運ばなくともよくなり、女子どもにとっては本当に楽になった。だけど井戸水も利用していた。井戸水はおいしいし、夏は冷たく、冬は温かったからである。しかし徐々に利用しなくなってきた。やはり不便だからである。使わなければ井戸の水は涸れてくる。水脈の上流部に県庁が移転し、住宅地もできたからなおのことである。とうとう井戸小屋はなくし、井戸は石組みの蓋で塞いでしまった。今はそこに井戸があったというのはわかる。しかし何世代かたったら井戸どころか何でこんな石組みがあるのかすらわからなくなってしまうのだろう。

(註)10年12月13日掲載・本稿「働く農家の子どもたち(1)☆家事の手伝い」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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