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貧しい食と厳しい労働(3)



              ☆雨たもれ―ヒデリノトキ―

 私の小学校入学の前年(一九四〇年)だったと思うのだが、ともかく日照りの夏だったようである。
 ある暑い日、簑笠をつけた農家が二、三十人、近くの八幡神社の池のところにある水神様の石碑の前に集まり、何かとなえてお祈りをした後、その石碑のまわりを土埃をまきあげながら足踏みし、謡い踊りながらぐるぐるぐるぐる回り始めた。
  「あーーめ たーーもれ あめたもれー
   こぐぞうさまがら あめもらた」
 これは雨乞いの歌だった(註)。それを何度も何度もくりかえし謡いながら回る。
 この詞のなかの「あめたもれ」は「雨賜れ」のことだろうと思う。「こぐぞうさま」は「虚空蔵様」で、山形市の西に連なる白鷹丘陵のもっとも高い白鷹山に祀られている虚空蔵尊のことである。この白鷹山の頂上に雲がかかると雨が降るといわれており、私も体験しているが本当にそうだった。そこでこの山の虚空蔵尊に雨を降らせる力があると考え、そこにお願いをして雨を降らしてもらおうと「虚空蔵様から雨もらった」と歌うのだろう。
 この踊りをはじめて見た私たち子どもは興味津々、家に帰ってからみんなでその真似をして歌いおどりながら何日間か飽きるまで遊んだ。
かなり年がたってから、あれは農民の干ばつに対する神への悲痛な祈りなのに、それがわからず遊びの道具にしてしまったと後悔した。
 そう言ったら、父がぽつりといった。あれは小作人の地主に対する酒ねだりであり、示威行動でもあったのだと。「雨たもれ」が終わるとみんなそのままの衣装で地主の家に行く。そうすると地主は酒を出さざるを得ない。「雨たもれ」は地主のためでもあり、干ばつから免れれば小作料が安定してとれるからである。同時に、小作人は今年は干ばつで不作かもしれないということを地主にアピールし、秋の小作料減免を考えさせる。そのための示威行動だったというのである。
 そうかもしれない。戦後は日照りになっても「雨たもれ」を見ることはなかったことがそれを示しているのだろう。
 それにしても干害は冷害と並んで農民にとっての大きな問題だった。日照りになると近所の農家の人たちは「『雨たもれ』でもすっか(するか)」とため息混じりに話していた。ともかく「空頼み」「神頼み」しかできなかった。
 もちろんいくら頼んでもお祈りしても雨が降る保証はない。実際に雨が降らず、水が足りないとなると、水利用の決まりを破ってこっそり自分の田んぼにだけ水を引き込もうとするものも出てくる。しかしそんなことをされると他の農家は困る。それで水を分ける堰や分水路のところに水番の小屋をおき、渇水時はもちろん水のもっとも重要なときはそこにみんなが代わる代わる泊まり込み、水が盗まれないように、水利用の権利が侵害されないように見張りをする。しかし、あまりの水不足にたまりかねて水分配の約束事を破るものも出てくる。当然けんかが起きる。
 宮城県中新田町(現・加美町)の多田川水系にある集落(いまはエノキダケの生産で有名な上多田川集落)のお年寄りがこんな話をしていた。このむらは「夜水引き」が有名で、あそこにだけは嫁に行くなと言われたものだと。つまり水が足りないので、夜中暗くて人が見ていないうちに、水を掛けている人の田んぼの水を止めて自分の田んぼに水を引くのである。まさに我田引水である。見つかったら大変なので、田んぼにじっと座って、人がきたら元に戻す。逆にそうされないように、隣の人も夜中に行って水を引く。こうした夜が毎日続く。しょっちゅう水けんかだ。いうまでもなくこんな水不足の地域ではまともに米がとれない、だからあんな村には嫁に行くなというのである。
 水分配の約束破りを集落ぐるみでやるところも出てくる。たとえば水路をせき止めて隣りの集落に水をやらず、自分の集落の田んぼにだけ水を流そうというところが出てくる。この水泥棒の気持ちはよくわかる。田んぼの水が干上がってひび割れができ、せっかく植えた稲が黄色く萎んでいくのは見ていられない。稲がかわいそうだし、自分たちだって飢えてしまうからだ。しかしそれは盗まれた方だって同じである。ともに死にものぐるいなのだ。当然隣のむらは怒る。鍬鎌をもってみんなが集まって堰を破ろうとする。それにまた鍬鎌でもって対抗する。こうして集落間のけんかとなり、血まで流すことになる。こんなことは全国各地に見られた。
 宮沢賢治はうたう、「ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ」と。しかし現実はそうではなかった。「ヒデリノトキハ 血ヲナガシ」たのである。
 一九七〇年代に経営の複合化で有名になった岩手県紫波町の旧志和農協管内とその周辺がその典型例だった。そもそも水田面積にくらべて川の水量が少なくて農家同士での調整が難しいところに、旧志和農協管内だけが同じ南部藩でも分藩の八戸藩の領土だったために周辺の地域との間で行政的な調整ができず、水をめぐっていつもすさまじく対立していた。記録に残っているだけでも三百年の間に三十六回、つまり十年弱に一回の割合で血で血を洗う水争いが起き、一九二四(大正十三)年には死者まで出たという。このように旧志和農協管内の農民は周辺から孤立していたためにまとまりがよく、それが志和型複合化(後に述べる)を可能にしたのだと冗談話に語る人もあった。「志和の水けんか」として有名だったこうした水不足問題が解決するのは戦後のことであった。

 いま水不足の話をしたが、その逆の水過剰も問題となる。排水不良の水田では収穫はあがらないし、作業も大変だからである。腰まで浸かって田植えをしなければならない田んぼなどはなおのことである。
 もっともひどい水過剰は洪水である。洪水は収穫皆無にさせたり、田んぼそれ自体を喪失させたりして、いわゆる水害を引き起こす。
 宮城県北の豊里村(現・登米市)などはその典型例で、北上川と迫川の合流点にあるためにしょっちゅう洪水に遭う常習水害地帯であった。そのために単収はきわめて低く、生活が成り立たなくて土地を売らざるを得なくなり、ほとんど全員が小作人となった。そしてその土地は宮城県唯一の千町歩地主を始めとする地主のものとなっていた。当然こうした地主には小作料を納めなければならない。小作料と水害の往復びんたであるから、むら人はまさに極貧にあえいでいた。だから周辺の人は豊里を「ほえど(乞食)のむら」と呼んだという。昭和の初期、こうした状況から脱却しようと大地主に対する激しい小作料減免闘争を展開し、厳しい弾圧を受けた。こうした闘争が戦後の農地改革につながるのであるが、この豊里が文字通りの「豊里」になるのは戦後のことだった。

(註)
 すでにどなたかがこのメロディーを採譜しておられるかもしれないが、もしかしてされていない場合を考えて採譜して記載し、遺しておくことにしたい。素人の私が採譜したので誤りがあろうかとは思うが、大体このようなものだという雰囲気だけでもわかってもらえればと思う。何かあればご指摘願いたい。なお、音符を書くソフトを使いこなせないために、小節の長さが斉一でなかったり、汚くて見にくくなったりしているが、これもお許し願いたい。


雨たもれ
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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