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農家生活の向上(2)

  


                  ☆地域格差是正の進展

 戦後はしょっちゅう停電した。だからろうそくが不可欠だった。しかしろうそくでは長時間にわたる停電には対処できない。それでランプ(たしか菜種油を使ったはずだ)を買い、さらには戦前お祭りの夜店が使っていたアセチレンガス灯まで買って使った。まさに明治時代に帰り、電気のない暮らしを味わうことになったが、一九五〇年を過ぎる頃には停電はほとんどなくなった。
 しかし、いまだに電気のない村があった。戦後の開拓地はもちろんのこと、既存の山村にも電気が通っていないところがあったのである。
 それも解決されてきた。戦後重視された電力事業の復興の過程で電気のないむらもなくなってきた。
 一番最後まで残ったのは岩手県葛巻町の一地域であった。一九六二(昭和三十七)年、そこにもようやく電気が通った(追記)。日本で一番最後に電灯がついた村と報道された。
 そのころはわが国はもうテレビ時代に入っていた。そのときにようやく電気が通ったのである。このことは、農村と都市の社会的基盤の格差、文化的な格差がいかに激しかったか、さらには東北がいかに差別され、取り残されていたかを示すものといえよう。

 差別と言えば、中学生の時に島崎藤村の『破戒』を読んで初めて部落差別なるものがあることを知った。それまで呼んだ本の中でもっとも感動した小説だったが、差別問題に関してはそれほど関心をもたなかった。差別などというのはこの小説の時代の明治まであったことでとうの昔になくなったものと考えていたからである。
 ところが大学に来て長野出身の同級生から差別がいまだに厳然として残っていることを聞いたときはショックだった。座敷には絶対にあげない、欠けた湯飲み茶碗でしかお茶は飲ませない、欠けた茶碗がないときはわざわざ茶碗を欠いて出す、部落のものと結婚すると本人ばかりでなく親族縁者すべて部落民として仲間はずれにされる、就職にも差別がある等々、聞いたときはショックだった。この民主主義の社会に何事かと私は彼を徹底してなじった。
 少なくとも山形ではこんな差別を聞いたことがなかった。それで祖父に聞いてみた。そしたら新平民というのはいた、その集落はあそこだと教えられた。その集落の人が日露戦争で勲章をもらった、新平民も同じ日本人なのだと新聞で大きく書き立てられたことがあったという。父に聞いたら明治維新以前の非人でいわゆる部落ではなさそうである。しかもその集落だけで他にあることは聞いたことがないという。つまりきわめて少数なのである。同じ学区内にその集落があったのだが、私はそこがそういう集落だなどとはまったく知らなかった。私の小さい頃は差別はまったくなくなっていたし、話題になったこともないからである。
 東北各地どこに行っても部落差別の話を聞いたことがない。部落という言葉は差別用語ではなく、今で言う集落を普通に部落と呼んでいた。七〇年代ころから部落というのは差別用語だから集落という言葉を使えという行政からの示唆で使わなくなったが、東北人からするとそれもよくわからない。
 そもそもいわゆる被差別部落なるものは東北にはなかったのではなかろうか。ところがいまだに関東以南に差別が残っている。いかに東北は民主的で平等か、関東以西はいかに後れているか。
 一九七〇年ころであろうか、『家の光』の記者で東北版の編集駐在員だったSYさんと飲んだとき、そういって関東以西をなじった。関東出身の彼は、うっと言って黙ってしまった。しばらくして彼は言った。
 「東北のなかでは差別がなかったかもしれない。しかし東北は明治以降全国の中で差別されてきたではないか。東北全部が被差別地域だったのではないか」
 そう言われたとき、今度はこちらがうっと言葉に詰まった。
 たしかにそうだった。東北人といえば田舎っぺと軽蔑され、東北弁はおかしい、汚い言葉だと軽蔑され、文化的に後れているとバカにされた。明治維新のときには東北が朝敵とされ、薩長藩閥に抑圧され、軍事的に不可欠のもの、中央による東北支配に必要なもの以外の社会資本の整備なども遅らされてきた。このようにそもそも自分が差別されているのに、自分のところには差別がないなどといばれるのか。内部で差別するゆとりすらなかったのではないか。こう考えたら、言葉を失ってしまったのである。
 東北には都市と農村の格差に加えて他の地域との格差が存在した。この地域格差は戦後の民主化の過程で少しずつ是正されてきた。
 しかし、二一世紀になる今また地域間格差の拡大が問題となってきている。歴史は繰り返すのだろうか。

 どこの農家も新聞をとるようになり、ラジオをもつようになった。新聞は戦中から戦後にかけての裏表一枚二頁から、一枚四頁、二枚八頁へと厚くなってきた。ラジオはNHKに加えて、民間放送もできた。
 しかし山形では民放を聴くことができなかった。東京にしか民放局がなく、古いラジオでは東京からの電波を受信できなかったからである。新聞に載っている民放の番組を見ていつもうらやましく思っていた。一九五二年の秋おそく、私の生家でも性能のよい新しいラジオを買った。それは底冷えのする夜だったが、初めて東京から放送される民放を茶の間で聞いた。いまと違い音波の数も少ないので雑音も入らず、音は小さいがはっきり聞こえる。ちょうど歌謡番組で、美空ひばりの歌う曲が流れていた。これまで聞いたことのない前奏とリズムだった。西洋音楽を取り入れながら日本的な旋律とリズムを活かしているすばらしい歌だった。後でわかったのだが、『リンゴ追分』(註)という曲だった。いまでもこの歌が好きだが、「リンゴの花びらが」という歌詞を聴くと、春ではなく晩秋を思い出し、寒い茶の間とラジオを思い出す。
 しかし、ラジオの電波の届かない地域もまだあった。電話などはましてやなかった。

 戦前を描いたテレビドラマのなかで、地方の町から東京に電話する場面がよく出てくる。そして簡単に通話をしている。しかしそれを見るたびに何という時代考証の悪さかと思う。江戸時代の話ならまだしもたかだか五十年前のことを間違って伝えていることに憤慨する。すると家内は、そんな風にテレビを見るな、本筋さえおかしくなければいいではないかという。しかしどうも許せない。
 そんなに市外電話が簡単に通じるわけはないのである。交換手に頼んでから何時間も待たないと遠隔地にはつながらない。回線が少ないからだ。通じるまで受話器の前でじっと待たなければならない。料金もべらぼうに高い。しかも相手の声がよく聞こえない。相当大きな声を出さなければならない。同じ町の中でも電話をするのは大変なことだった。
 ましてや、電話のある家など少ないのだから、電話しようにも相手に電話はない。電話をもつというのは大変なことなのである。ダイヤル式電話機に替わり始め、電話を引きやすくなった一九六〇年代後半でさえ、都市部でも電話回線が来ていないところがあり、電話が設置されるまで申し込んでから一、二年もかかったものである。しかも当時は加入料、設置工事費、電話債券購入等できわめて高額の金がかかる。一般庶民が簡単に電話をもてる時代ではなかった。たまたま近所や親戚で電話をもっているものがあれば、そこに頼んで連絡してもらうということはあったが。
 町部でさえそうなのだから、農村部ではましてやであった。そもそも農山村に電柱を建て、電話線を引くなどというのは、今でいう費用対効果からいうと引き合わないし、軍用、治安用としても利用価値は少ないからである。だから電話回線設置は都市部優先となる。しかも農家は金がない。電話を持っている農家などというのはほとんどなく、電話があるのは公共機関と旧地主や有力者程度であった。
 だからもっとも早く、確実で、安い緊急通信は無線による電報だった。ただし、電文一字あたりの料金は高いので文はきわめて短くせざるを得なかった。しかもカタカナなので文の意味がわからなかったり、意味を取り違えたりすることがよくあり、それが笑い話となったものだった。
 テレビ時代が始まりつつあったのに、情報文化面での都市と農村の格差はきわめて大きかった。

 どこだったか記憶にないが、六〇年代後半のこと、調査農家に昼頃行ったら玄関先からNHKの「昼の憩い」の音楽が流れてくる。よくみると電話機からである。電話がラジオになっているのである。
 それが「農村有線放送電話」であった。農協や自治体などが運営主体となり、一本の電話回線を通じて地域内の家々の間だけではあるが通話ができるようにし、さらに地域内の家々に向けて一定の時間帯に定時放送を流すというものである。農村の生活向上、そのための情報伝達手段の向上を図るという趣旨で一九五〇年代後半に有線放送の法律が制定され、それから各地に普及したのである。
 こうして地域内の家々の間だけであったとしてもともかく電話が通じた地域も生まれた。とくに隣近所の家が離れている地域ではこれは便利だった。また、ラジオの電波の届かない地域はこの有線放送で一定時間帯だけでしかないとしてもともかくラジオ放送を聞けるようになった。
 ちょうどそのころ、一九五〇年ころからだったと思うが、昼休みになると『農家のいこい』(後に『昼の憩い』に改名)の番組が古関裕而作曲のテーマ曲にのって毎日放送されるようになった。このように、昼のもっとも視聴率の高い時間に農村向けの放送をするということは、農村、農業が大事にされ、注目もされていたことを示しているといえよう(農村人口が当時はまだ多かったことからだけなのかもしれないが)。
 テーマ曲にのせて放送される全国各地の農事放送通信員(後に農林水産通信員と改称されるが、よく農業改良普及員がやっていた)からの農業技術のニュース、季節やふるさとの便りは、農業技術の普及などで農家に役に立ったばかりではなく、都会に出た農家の子弟にふるさとを思い出させてその心をいやす役割もはたした。

 嫁入り道具、昔から親は借金をしてでも娘にもたせてやろうとした。婚家で娘が肩身の狭い思いをしないようにするためにも必要不可欠だった。しかし金がなくてそれができない農家もかなりあった。
 農地改革の成果がようやく定着し始めた五〇年代には、ほとんどの農家がたくさんの嫁入り道具をもたせて娘を嫁にやることができるようになった。この道具の中に必ず入るようになったのがミシンだった。結婚式には、昔からの箪笥や衣類に加えて足踏み式のミシンが誇らしく婚家に並べられたものだった。
 やがてどこの農家にもミシンがおかれるようになった。都会でもそうで、どこの家でも縁側か居間の片隅に鎮座するようになった。ミシン産業は当時の花形だった。
 このミシンは衣の面での生活の向上を示すものであり、また女性の家事労働の軽減に大きく寄与するものであり、さらにはラジオと並んでこれがあることは何か文化的な生活になったような気にさせたものだった。
 やがて、嫁入り道具は競うがごとく豪勢になっていった。結婚式もそうだった。かつての地主と同じことをしたかったのかもしれない。ただし、式は必ず自分の家でやった。式の形式も地域の伝統に則っていた。だから今のようにホテルの「虚式」に収奪されることはなかったが、いくら自分の家でやるといってもやはり金はかかった。家の者も大変だった。地域にもよるが、三日三晩も披露宴が続くというのが普通だったからである。
 あまりにもど派手になった結婚式、それに対応してのご祝儀の相場の上昇、これが大きな問題となってきた。そればかりではなかった。葬儀の香典、香典返しの水準も上昇していった。
 こうしたことから展開されたのが、虚礼廃止を目標とする新生活運動だった。結婚式を会費制で公民館等でやろうとか、香典はこの額にしようとか、相談して決める地域もでてきた。この運動は、一九五〇年代半ば頃から、農村部ばかりでなく都市部でも、全国各地で展開された。
 このような運動を展開しなければならないほどの虚礼の流行には問題があったが、ともかくこんなことができるほど世の中は落ち着き、ゆとりも出てきたということも示すものであり、やはり喜ぶべき現象だったといってよいであろう。もちろんこんな虚礼は一時的なものとして終わらさなければならなかったものだが。

(註) 作詞:小沢不二夫 作曲:米山正夫 一九五二年

(追記) この年次を一九六二(昭和三十七)年と記憶していたので最初そのように書いたが、葛巻村の旧江刈小学校の年表には「昭和32年電気導入」とあったので、私の記憶違いだったかもしれないと思い、いったん五七年に訂正しておいた(14.04.23)。しかし、葛巻出身の研究者NK君がその後調べてくれて町のすべての集落に電灯がついたのはやはり一九六二年であるとわかった。そこでもとに戻させていただく(14.05.03)。二度にわたる訂正、お許し願いたい。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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