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農家生活の向上(3)

  

            ☆どぶろくから酒、ビールへ

 一九五〇年ころ、中学校から三時過ぎに帰ると、いろりのそばに近くの交番のお巡りが座って祖母と雑談している。それがほぼ毎日である。なぜなのか不思議だった。ある時次のようなことに気が付いた。
 お巡りが来て五分くらいたつと祖母がコップに何か白いものを注いでもってくる。お巡りはそれをキューッと飲み干す。それから敬礼をして「それではまた」と自転車に乗って帰る。その白いものが出てくるまでは帰らない。逆に祖母がいないとすぐに帰ってしまう。
 祖母はどぶろくづくりに関しては近所で評判の名人だった。お巡りはそのどぶろくが飲みたくて、巡回の途中必ず家に寄ったのである。考えてみれば、警察は税務署と違って密造を取り締まる権限も義務もない。だからお巡りには罪悪感はない。祖母も平然とどぶろくをごちそうする。飲ませておけば何かのときに役立つと考えたのだろう。
 どぶろくは農家の必需品だった。客や手伝い・結いの人たちに酒を飲ませるのは必要不可欠なのに、戦後酒は配給でほとんど出回らず、しかも高かったからである。また米が小作料でとられることがなくなったので、どぶろくをつくれるようになったこともあった。だからどこの家でもどぶろくをつくった。

 一九六二(昭和三十七)年、宮城県古川市の近郊(現・大崎市)に調査に行った。今なら市の中心部から車で十分もかからないところであるが、当時は歩きなので、農家に泊めてもらって調査をした。その夕食のとき、ご主人がビールを飲んでいた。そして私たちにも勧めてくれた。次の晩もである。客が来たからといってビールを出したわけではなく、晩酌で毎晩飲んでいるのである。
 私は驚くと同時にうれしくなった。何でそんなことでと言われるかもしれない。何も不思議なことではないからである。しかし当時ビールはかなり高価だった。酒も高かったが、それ以上に高かった。貧乏学生は焼酎を飲んでいる(少し金があると焼酎に甘い梅エキスをたらして飲みやすくした梅割り焼酎・通称ワリチュウを飲んだものだった)時代であり、一般の家でも晩酌がビールなどということはなかなかできなかったころである。ところが普通の農家が、どぶろくではなくて、酒どころかビールを飲んでいる。普通に飲める時代になってきたのである。それが何とも言えずうれしかった。
 しかしこのことは村からどぶろくが消えていくことを示すものでもあった。
 それでもまだ、とくに山間部などでは、細々と残っていた。

 先にも述べた七一年の岩手県川井村(現・宮古市)の調査(註1)のさい、ある農家におじゃましたとき、昼の日中なのに、調査の最中なのに、お茶代わりということでどぶろくを出された。そもそも川井村の水田面積は少なく、その農家も自給もおぼつかないほどの水田しかないのに、そこでとれた大事な米をどぶろくにすることに驚いた。そんな貴重なものをいただくわけにはいかない、ましてや調査の最中である。遠慮はしたものの、何しろ根っからの酒好きのこと、ついつい手が出てごちそうになってしまった。一口含んだらちょっと味が違う。二口目、酸味が少なく、口当たりが非常によいことに気が付く。ともかくおいしい。驚いていると、農家の方は笑いながら「これはビールだ」という。麦を原料にしてつくったどぶろくだというのである。
 「麦どぶろく」を飲んだのは、後にも先にもこのときだけだった。

 次にどぶろくにお目にかかったのは、それから二年後、さきにも述べた岩手県二戸市上斗米集落の調査(註2)のときである。ここはかなり山深い集落であり、バスは一日に一往復しかない。自家用車もまだ普及していないころなので、買い物などは乳業会社の集乳車に頼んで街から持ってきてもらっていた。それで酪農家の家に泊めてもらって調査することにした。もちろん私は交通手段の善し悪しにかかわらず農家に泊めてもらって調査をする(註3)ことを原則としていたのだが。夜いっしょに飲むと、いろいろなことを、とくに本音を教えてくれるし、農家のまたむらの実態がわかるからである。
 第一日目、夕食はジンギスカンだった。ご主人とビールを飲みながら食べた。第二日目、またジンギスカンである。他におかずはない。酪農専業で自給野菜もほとんどつくっていないからである。しかし脂っこいものはもう限界である。それでジンギスカンにはちょっと手をつけるだけにし、ビールでおなかを満たすことにした。ただし、いっしょに行った大学院生たちは、若いだけあって、喜んで食べていた。
 次の朝、もう今晩は別のおかずだろうと期待してジンギスカンの匂いの残る寝床から起きあがると、ご主人がどこかに電話している。よくよく聞くと、「ジンギスカンを何㌔買ってもってきてくれ」と集乳車の運転手さんに頼んでいる。がっくりきた。なぜこの山のなかでオーストラリアの羊の肉をしかも三日間も食べなければならないのか。とは思ったが、山のなかだからこそ羊肉はごちそうなのであり、農家にすれば大歓待なのである。
 昼、調査に行った農家の庭にミョウガが植えてあり、食べ頃の花芽が出ていた。実は私はミョウガがあまり好きではなかった。しかし、身体がこれまでの脂っこさをこれでとれと要求しているのか、ともかくミョウガが食べたい。それで農家の方にお願いして採らせてもらった。
 夜、ジンギスカンとビールが出た。ご主人に聞いた。白い飲み物(言うまでもなくどぶろくのこと)はつくっていないのかと。そしたら、裏の物置に入っているが、先生方にこんなものを飲ませるわけにはいかないと思って出さなかったという。ビールよりもそれがいいと言ったら、喜んで持ってきてくれた。何とそれが当時発売されたばかりのビール特大瓶(註4)の空き瓶に入れてある。中身は白いけれどこげ茶色のビール瓶に入っているのだからこれはビールだ、酒税法違反にはならないなどと笑いながらごちそうになった。うまかった。私はどぶろくをアルコールとしてだけでなくご飯代わりにもし、しょう油をかけたミョウガをつまみ兼おかずにし、ジンギスカンには一切手をつけなかった。このときからミョウガが私の好物の一つとなった。

 もうほとんどどぶろくを見かけなくなった八〇年代前半のことである。宮城県北の小野田町(現・加美町)から講演を頼まれた。帰りは役場の車で家まで送ってもらうことになっていたが、講演が終わった後、農家の方がおみやげをやるから家に寄っていけという。それで家に行ったら、一升瓶のような何か長細いものを新聞紙に包んで持ってきてくれた。そして笑いながら言う。
「先生、抱えて持っていけ、爆発するから下には置かないでな」
 爆発物がおみやげとは何だろうと思ったら、何とどぶろくだった。車で揺らされると発酵中なので一升瓶から噴出する危険があるのである。
 まだどぶろくは残っていた。それも平場の農村でだ。うれしかった。しかし役場の人が帰りの車中で言った。どぶろくづくりの名人が高齢化で徐々にいなくなっている、どぶろくがなくなるのはもう時間の問題だと。担い手問題、高齢化問題は、どぶろくづくりから始まっていたのだ。
 まさに貴重品である。もったいなかったが、ゼミの学生にも飲ませてやろうと思って翌日大学に持っていった。みんな生まれて初めてで、感激して味見をしていた。

(註)
1.11年1月6日掲載「☆入会林野」参照
2.11年3月25日掲載「☆残っていた焼畑農業」参照
3.もちろん宿泊料は出させてもらう。
4.当時ビール大瓶3本分くらい入っている「サッポロ生特大瓶」(通称「サッポロジャイアンツ」)が発売されたばかりだった。ジャンボ瓶とも呼ばれたが、現在は発売が中止されている。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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