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農家生活の向上(4)

  


            ☆塩魚、干魚から生魚へ―ガンガラ部隊―

 一九六〇年ころ、宮城県の平坦部の農家に調査でおじゃましたとき、通された茶の間の机の上に何か白い粉のようなものが山盛りにのっている盛り皿があり、それにさじがさしてある。お茶請けらしく、お茶を出してくれた奥さんからさあどうぞと言われる。でもどうやって食べるのかわからない。手をつけないでいると、遠慮していると思ったらしく、さじですくって私の手の上にのせてくれた。何かわからないけれどもともかくなめてみた。何とそれは砂糖だった。
 驚いた。少なくとも山形では漬け物やお菓子が普通のお茶請けであり、砂糖そのままを出すことはなかった。何の工夫もなしに砂糖そのものを出すなんて、何と文化水準が低いことかと宮城県出身の家内を冷やかした。
 後でその話を父にしたら、山形でも大正時代には農家ばかりでなく町場の家でも砂糖をそのまま出すところがあったという。砂糖はそもそも貴重品であり、それをお茶菓子として出すのは、当時としては最高の接待だったのである。ただしそれが戦後の今頃まで残っているとはと父は驚いていた。
 しかし、もうそろそろそんな時代は終わりつつあった。砂糖は貴重品ではなくなりつつあった。どこへ行っても自家製の漬け物に加えてお菓子を出すようになっていた。
 そして農村部の食はかなり変わってきていた。たとえば魚を食べられるようにもなってきた。

 ある村に行ったとき、昔はシオビキ(塩引き=塩鮭)を「猫またぎ」と言ったものだという話を聞いた。その昔は塩鮭は安く、しかも保存できるので、大量に買い込んでおかずとした、毎日のように食べるものだから、猫もあきてしまって塩鮭をまたいで通る、それで猫またぎというのだそうである。つまり、塩鮭程度しか農家は食べられなかったのである。海の遠い地帯などはましてやそうだった。
 秋田には北海道の鮭鱒を捕る船に乗る出稼ぎがかなりあり、帰りに賃金の代わりに筋子を背中いっぱいに背負わされて帰るものもおり、そうした人は家に帰る途中各地の家々をまわって売り歩いて現金を得たという。だから筋子もかなり安く手に入った、こんな話を調査の時に聞いたこともある。
 しかし、私の子どものころ、戦中から戦後は猫またぎなどと言われることはなかった。戦争で鮭が獲れなくなったのでめったに手に入らなくなったからである。塩鮭は貴重品であり、しょっぱい塩鮭は本当においしく、大事に大事に食べたものだった。ましてや筋子などは高価でなかなか食べられなかった。
 高度経済成長に入る頃から、塩鮭は簡単に手に入るようになった。それと同時に、甘塩とか称して、かつてのような塩鮭は食べられなくなった。
 網走に行ったら食べられるだろう、何しろ鮭の大産地、と期待していったのにおいしい塩鮭がない。そう文句を言ったら、農大の同僚のNMさんからこう言われた。
 「網走では鮭は生で食べるのだ、それができないところが塩鮭を食べるんだ」
 そのときはなるほどと思ったが、三~四年くらい経ってから本当になつかしいおいしい塩鮭を発見した。昔ながらの「山漬け」という製法でつくったものだそうだが、さすが網走である。少々高いのが難点ではあるけれども、ともかく中まで塩っ辛いまともなシオビキがまだあったのである。

 いうまでもなく生魚は高い。もちろん冷蔵庫はない。だから、塩鮭、たっぷり塩をふってあるイワシやニシン、塩鯨などの塩魚、それに佃煮、塩辛(切り込みと呼んだ)などの塩蔵品、みがきにしん、めざし、するめ、わかめ、昆布などの干物が中心になる。
 もちろん、沿岸近くの農村は別である。海の近い宮城県平坦部の話だが、サンマやイワシのとれる時期にはべらぼうに安くなる。かつては貯蔵手段がなかったからである。それで農家はバケツに何杯か買い、そのまま焼いて食べるのはもちろんだが、糠などに漬けて、あるいは干して貯蔵して、何日間も食べた。しかしバケツ一杯二銭のサンマも買えない小作農もあったと、お年寄りの方がしみじみ語ってくれたことがある。
 山国の私の故郷では生魚はなかなか食べられなかった。明治以前などは太平洋に行くにも、日本海に行くにも、片道最低でも一日以上かかったからである。大正から昭和にかけて鉄道の陸羽西線、仙山線ができたので生ものも入ってくるようになった。サンマやイワシ、カド(鰊)などは季節になると魚屋に並び、焼いて食べる。もちろんしょっちゅう食べられるわけではないのでもったいない。それで身はもちろんきれいに食べるし、頭も食べられるところは食べ、残った骨は囲炉裏などでこんがりと焼いて食べる。めったに口に入らないが、刺身もある。今考えると食えたものではないが、それでも当時はおいしいと感じたものだった。ただし食あたりが心配だ。父などは絶対に刺身は食べなかった。必ずジンマシンが出るからである。
 塩漬けでもない、干物でもない、本当に新鮮な魚といえばドジョウ、鯉などの川魚であった。田んぼでつかまえてきた大きなドジョウをいろりで焼く匂いなどは忘れられない。ただし数が少ないので、まず家長の祖父が食べ、子どもはたまにお裾分けに預かることはあるが、めったに口に入らない。思いっきり食べられるのは、ドジョウを売りに来る近在の農家から買ってドジョウ汁にして食べるときである。
 鯉は、私の母の実家のように池があって飼っていればたまに捕まえて食べる。しかし私の家を含めて近くの農家は飼っていなかった。飼えるような川の水が流れて来ず、池もつくれなかったからである。それで、天秤棒の前後に生きた鯉の入ったタライを担いで毎年売りに来る近在の農家から買って食べた。その農家は、生きた鯉を井戸の脇でさばいてくれる。切り身になってもピクピク動くしっぽが何となく気持ちが悪いが、甘煮にして食べる頃には、そんなことを忘れてしまう。私に言わせると鯉の腹の部分の甘煮は絶品である。戦後落ち着いてからは、この鯉の甘煮がお祭りや祝い事のさいの欠かせない料理となった。
 ところが、仙台に来たら鯉料理がなかった。海が近いから当然かもしれない。
 それから仙台では干物の料理も少ない。たとえば山形では、「ぼんだら」(棒鱈・鱈の干物)、「からがい」(秋田などでカスベと呼ぶエイを干したもの、ぼんだらと同じくがちがちに固い)を水に何日間か漬けて戻して甘煮にするが、仙台にはない(これについてはまた後に述べる)。「ぼんだら」よりは「からがい」の甘煮の方がずっとおいしく、当然そのかわりに高価だが、お祭りのときにはこれを客に出す。
 海草類、これはほとんど乾物なので、山形ではよく食べる。わかめ、こんぶはいうまでもないが、テングサやエゴ草も食べる。その干物を買ってきて自分の家でところてんやエゴをつくり、夏に食べるのである。半透明に固まったところてんを長四角に細長く切る。それを「天突き」(と呼んだと思うのだが)に入れて突き棒で突くと下から細長いところてんがニョロニョロと出てくる。それが子どもにはおもしろく、自分で食べる分は自分でやる。なお、エゴは仙台では見ない。会津にもあるそうだが、日本海側では食べるようである。ところてんよりも固くてくせがあるが、酢味噌をかけて食べると絶品である。
 フノリを買うと子どもたちはおやつ兼おもちゃとして少しもらった。乾燥したフノリを口に入れると海水の味が口の中いっぱいにひろがり、何ともいえずうまい。それを噛まないでゆっくりねぶる。そのうちフノリがふくらんでくる。ピンクがかった茶色のサンゴのような形をしてとてもきれいである。どれだけふくらんだかをみんなで競争する。そのうちぐちゃぐちゃになり、味も何もなくなる。すると噛んで腹の中に入れる。これでおやつになる。
 こうした山形の「鯉と干ものの文化」が大きく変わるのは一九六〇年代以降であった。その先駆けとなったのが担ぎ屋=ガンガラ部隊であった。

 担ぎ屋とかガンガラ部隊とか、若い人たちには何だかわからないかもしれないが、これは戦中から戦後にかけての食糧統制から生まれたものなので、それについて簡単に説明しておこう。
 日中戦争以降、人間を含むすべての物資を戦争遂行に動員するために国家総動員法が制定された。そうなると不足するものが出てくる。そこで政府はそうした物資のうちの生活必需品については自由な販売を禁止し、公平に国民に行き渡るように政府が一定の量を割り当てて販売するという配給制をとることにした。前にズックや長靴などの配給について述べたが、それがこのことだったのである。
 当然のことながら食糧についても配給制をとるようになった。太平洋戦争に突入して食糧が不足してきた一九四二(昭和十七)年、買い占めや売り惜しみなどが起きないようにと国が食糧の流通を管理する食糧管理制度を施行したのである。すなわち政府は農家から米麦、雑穀、いも類などの全生産量(農家の自家消費分を除いた)を政府が決めた価格で強制的に買い上げる。つまり「供出」させる。そしてそれを、政府が決めた価格で、同じく政府が決めた一定量(たとえば一人当たり一日米二合)だけ、消費者に売り渡す。つまり「配給」する。
 こうした食糧統制は戦後も引き継がれるが、戦後の混乱のなかで、また不作による供給不足ともう一方での復員や引き揚げ等による人口の増加のなかで、消費者に十分な量の配給がなされず、餓死寸前という状況までになった。そこで消費者は農村部に直接行って食糧を手に入れようとした。これを買い出しと言ったが、一方生産者の方は物価の急上昇のなかでの低価格供出に苦しんでいたので、すべてを供出に回さずにこっそりとっておいたり、自家消費分をけずったりした食糧を、政府買い上げ価格よりも高い価格で、買いに来た消費者に販売した。こうした取引は闇(ヤミ)取引といわれ、当然違法なので見つかれば厳しく罰せられた。そして闇に流れたりしないようにと農家の自家消費分に食い込むほどの供出を割り当て、米軍のジープまで来て家捜しをして供出させたりもした。
 しかし闇取引はなくならなかった。それどころかこうした闇取引を商売として行うものまで出てきた。つまり闇で売ることを目的として農村に農産物を買い出しに行き、それを都市に持っていって消費者に売るのである。もちろん店をかまえてこうした商売をするわけにはいかないから行商である。消費者も一々買い出しに行くのは大変なのでこうした行商に頼るようになる。かくして戦後、闇物資を地方から都市へ運んで売る行商、いわゆる闇屋(やみや・闇物資を扱うのでこう呼ばれた)、担ぎ屋(闇物資を担いで売り歩くのでこうも呼ばれた)が全国各地をかけめぐった。

 奥羽本線の列車も東京に闇米(やみごめ)を運ぶ担ぎ屋でいっぱいだった。高校三年だった一九五三(昭和二十八)年の夏、中学の修学旅行以来二度目の東京行きで山形から夜行列車に乗ったときも、食糧事情が少しは落ち着いていたにもかかわらず、いまだかなりの担ぎ屋が乗っていた。彼らの間をぬって席を見つけて座ったら、腰掛けの下に米の入った南京袋がおいてある。自分の腰掛けの下ばかりでなく、他人のところにもおくのである。それほどの量を一人で持ち運ぶのは大変だし、どうするのだろうと思っていたら、何と東京にはそれを受け取りに来る仲間がいた。赤羽駅に着くと、ホームや線路にいる仲間に窓や入り口からどんどん放り出して渡すのである。上野駅まで持っていくと警察の取り締まりにひっかかるので、赤羽駅が彼らの終着駅だった。
 学生時代山形から仙台を往復するときにもこの担ぎ屋をよく見たが、彼ら(彼女らと言っていいくらい女性が多かったが)はガンガラ部隊と呼ばれていた。「ガンガラ」とは菜種油や醤油等を容れるブリキ製の一斗缶の空き缶を言ったもので(叩くとガンガラと音がするかららしい)、それを兵隊の背嚢(はいのう)のように背負って群をなして歩いていることなどから「部隊」、合わせて「ガンガラ部隊」と呼ばれたのである。
 彼女らはまずよく背負えるものだと思うくらいのたくさんの米や野菜、果物をガンガラなどの入れ物に入れて背中に背負い、山形駅など山形県側の駅から朝一番の仙山線の列車に乗り、仙台駅もしくはその前の北仙台駅で降りて家々を売り歩く。その帰りに卸屋等から魚等の海産物を買い、やはり山のように背負って(といっても行きよりは少ないが)山形で売る。こういう往復で商売していた。食糧が配給制でなくなり、闇物資ではなくなっても、これはかなり長く続いた。
 午前中に仙台で野菜などを売り終わって魚を買い、午後に列車に乗り、大体二時間半で山形に着く。するとその晩か次の日に魚はお得意さんの食卓に乗る。魚屋を通すよりもずっと速い。まさに産地直送である。つまりガンガラ部隊のおかげで山形市周辺住民は新鮮な魚が買えるようになったのである。
 そのうちトラックなどの輸送が盛んになり、貯蔵・冷蔵手段も発達してきた。それで普通の魚屋でも新鮮な魚が手に入るようになった。それでガンガラ部隊は少なくなったが、まともな生魚を山形市周辺で食べられるようにした先駆者は彼ら彼女らだった、と私は考えている。
 ガンガラ部隊は私もやった。といっても売り買いするためではない。学生のころ、仙台の魚屋で新鮮な生魚を見ると家族に食べさせたくなり、生家におみやげに買っていく。たとえばカツオなどは一匹まんま買う。ともかく安い。一匹買うなんて山形では考えられない。それを刺身などにしてみんな喜んで食べるのだが、とくに祖父は「うまい、うまい」と言って目尻を下げながら食べる。すると祖母が後ろでぶつぶつ文句をいう。「孫が買ってくると、サンマでもうまいというんだから」と。いつもは料理をほめたり一切しないのに、そのときにかぎってほめるから祖母はおもしろくないのである。祖母の言うとおり、孫の私が買ってくるのがうれしかったのだろうが、やはり産地直送はうまかったのだろう。その朝獲れたものを十一時頃に店頭に並べる店から買ってそのまま列車に乗り、その日の夕方に食べるのだから、近くの魚屋で買う魚と鮮度がまるっきり違ったのである。

 日本は海洋国と言われ、海の魚を食べる民族と言われているが、まともに全国民が食べられるようになるのは戦後であり、とくに輸送手段、貯蔵手段、漁労手段の発達した七〇年代以降であった。もちろんそれには乱獲、違法漁業、それを基礎とした水産物の輸入が大きく寄与している。そしてそれは水産資源の枯渇、漁村の荒廃をもたらすことにもなったのだが。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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