Entries

農家生活の向上(5)

  

             ☆山形発仙台行の野菜

 話はちょっとずれるけれども、昨日述べたことと関連して二つのことを述べておきてたい。
 まず、かつて国鉄、現在JRの仙山線のことである。
 昨日は仙台―山形間は二時間半かかると言ったが、現在は一時間弱でいく。なぜ、かつてそんなに時間がかかったのかであるが、それは当時全国で三番目に長かった面白山トンネルが真ん中にあったことと急勾配が多かったことからである。蒸気機関車ではトンネルが長いと煙が充満してしまうし、急勾配を登るのも無理である。そこでトンネルの区間だけ電気機関車にした。つまり、相対的に勾配の緩い仙台駅から作並駅までは蒸気機関車、作並駅からトンネルをこえた山寺駅まで電気機関車、山寺駅でふたたび蒸気機関車につなぎなおして山形駅に行くというようにしたのである。いうまでもなく、この機関車の入れ替えには相当時間がかかる。また、蒸気機関車で走る区間にけっこうな勾配を登るところが何ヵ所かある。それで時間がかかったのである。登り切れずに途中で止まってしまい、また下に戻って勢いをつけて登る、それでもだめでまたやり直す、ようやく勢いがついて止まらずに走れるようになる、こんなことを何回か私が経験したほどの急勾配だった。
 この仙山線で私が大学に入った年から交流電化の実験が始まり、翌一九五五(昭和三十)年には全国初の交流電気機関車が走り、さらに交直両用電気機関車が開発されて全線電化となり、やがて全線交流となった。それで現在のような短時間となったのである。
 このように仙山線は全国の交流電化、新幹線の電化・高速化の先駆けとなった。ふるさと山形と仙台を何百回となく往復したわが仙山線のことを威張りたいので、ちょっと付け加えておく。
 ついでに言えば、私が網走にいるときしょっちゅう見ていた釧網線でDMV(デュアル・モード・ビークル=線路・道路両用車)の試験運行が最近始まった。世界初のことらしい。仙山線、釧網線と私に縁のあるところが先端を切るというのは、鉄道マニアだった私としてはとってもうれしい。
 なお、山寺の次の高瀬の駅と集落は、農村をきれいに画いたアニメ映画『思ひ出ぽろぽろ』の撮影場所ともなっている。

 もう一つ、前節で述べたガンガラ部隊にはおかしなことに仙台人がいなかったことである。
 朝一番の仙山線に山形駅から乗ると県内の各駅から陸続とガンガラ部隊が乗る。六両編成のうち後ろの二両が部隊専用(正しくは占領)列車である。魚くさいというか、一種独特の臭いがする。帰りの時間はばらばらなので人数は少ないが、やはり同じ車両にみんなが乗る。ときどきお互いに品物を交換したり、足りないものを分けてもらったりしている。ただし、宮城県側の駅からはだれも乗らない。
 仙台駅から山形行きの朝一の列車に乗ってもガンガラ部隊はいない。敗戦直後の食糧不足期にはいたのかもしれないが、少なくとも一九五四(昭和二十九)年にはいなかった。要するにガンガラ部隊、担ぎ屋さんはすべて山形人なのである。かつては山形から海のある酒田までも行っていたが、酒田の人も山形に来ていた。しかし奥羽線、陸羽西線を通っていくのでかなり時間がかかる。だから世の中が少し落ち着くとそのガンガラ部隊はなくなつたが、酒田であろうとも内陸であろうともともかく山形の人は動いた。ところが仙台の人は動かない。そして言う。山形の人は働き者だ、仙台からお金をみんな持っていくと。それなら仙台の人が山形に来て持っていけばいいのにと言いたくなる。ところが来ない。なぜなのだろうか。
 なぜなのかといえば、山形の野菜がなぜ仙台で売れるのかもわからなかった。仙台近郊には多くの農地があるのだからつくればいい。しかも当時は仙台の人口がそれほど多くないから近郊の生産で十分間に合ったはずである。ところがつくらない。もちろん仙台市南部の河川敷の畑地などでは野菜をつくっていた。しかしそれだけで仙台の市場の需要をまかなえない。仙台市の周囲は水田だから野菜はつくれないというかもしれないが、そしたら畑地化すればいい。実際に私の生家などでは田んぼに土を入れ、畑にして野菜を栽培した。そこまでしなくとも、それ以外の地域には畑は十分すぎるほどある。たとえば仙山線沿いだ。ところがその畑を見ると何か私の知らない作物を栽培している。ウドに似ているがそれでもなさそうだ。後でわかったのだが、それはコンニャクだった。私の初めて見るものだった。たしかに畑作物で収入をあげようとすればコンニャクは相対的によかった。また葉たばこも労力はかかっても所得が多いので栽培されていた。ところが野菜は少ない。キュウリ、トマトなどがあまり見あたらない。庭の畑にちょっぴり植えられている程度である。白菜や大根は見られるが、山形周辺の農家のように多くはつくっていない。これでは山形の野菜が売れるはずである。仙台の生産者は何をしているのだろうか。大学に入った頃、そんなことを感じたものだった。
 それでも、そのおかげで私の家を始め山形市周辺の農家は仙台市場にかなり野菜を出荷することができた。たとえばトマトがそうである。
 このトマトの収穫はきわめて難しかった。輸送手段、貯蔵・冷蔵手段が今のように発達していない時代であり、また品種も今のようなものではなかったからである。つまり、完熟したものを収穫して遠隔地に出荷するわけにはいかなかった。そこでトマトの実の頂点が黄みがかったものを東京に送る。東京に行くまでの間に徐々に赤くなり、市場を通して店頭に並ぶころ(五日以上過ぎているのではないだろうか)にはおいしそうな色になる。ただし黄色に見えても赤くならないものもある。間違ってこうしたもの、つまり未熟なものを送ってしまったら大変である。赤くなり始める寸前、つまりてっぺんがいい具合に黄色になったもの、これを見分けるのが熟練となる。仙台向けには頂点がちょっぴり赤くなったものを出荷する。輸送時間が東京よりは少なく、三日ぐらいすると店頭に並ぶからである。赤く熟したものは地元の山形市場にしか出せない。こうやって三種類に分けて収穫、出荷するのであるが、ろくに熟してもいないトマト、いくら後で色がよくなっても完熟とはいえないトマトをよく都会人は食べるものだと思っていた。
 取り残しや売り物にならない小粒のトマトがそのまま枝に残って真っ赤に熟れる。この本当の食べ頃の甘いトマトを食べているものにとっては、いくら赤くはなっていても仙台の店のトマトなど食べる気がしなかった。
 なお、六〇年代に入って山形側の仙山線沿いの田畑にイチゴの露地栽培やハウス栽培が一面に(といっても山間だからそんなに面積はないが)見られるようになつた。これもガンガラ部隊の需要から始まったようだ。食糧事情が緩和し、これまでのように何でも売れた時代とは違ってきたこと、当時としては嗜好品に近かったイチゴなどの需要が増えたことによるものだろう。イチゴが背負った荷物の一番上を占領するようになった。

 それにしてもなぜ仙台では野菜やイチゴをつくらないのだろう、また担ぎ屋がいないのだろう、これが不思議でならなかった。果樹も和ナシを除いてほとんどない。後の話になるが、仙台衆は園芸的センスがない、勤勉でないのではないか、これが後の減反対応、複合経営化に影響を及ぼしたのではなかろうかなどと、宮城の普及員の方たちと冗談を言ったものだった。
 もちろんこれには技術的理由があった。仙台の六~七月の天候が悪く、トマトやキュウリの収穫が後れるので、先にできる山形産に負けてしまう、それで野菜は自給用くらいしかつくらず、コンニャクやタバコを主につくることになったと思われる。

 やがてこうした野菜栽培の困難はハウス栽培技術の導入などで後にかなり解決され、それを基礎に宮城県南の亘理郡などはイチゴを始めとする野菜の産地として大きく成長した。水田を畑地化してハウスを建てる農家も出てきた。とくにイチゴについては他県に出荷するくらいに産地として成長している(なお、こうしたなかで仙山線沿いのイチゴは姿を消し、また流通機構の整備とガンガラ部隊員の高齢化のなかで隊員は徐々に少なくなり、やがて仙山線沿いには市場向けの食用菊が植えられるようになり、今は宅地化もしくは荒らしづくり化しつつあるが)。
 とは言っても、仙台市場に出荷される宮城県産の野菜の比率はいまだに低い。
 仙台市役所のある人が笑って言った。仙山線沿いの旧宮城町の集落の農家は山形産のバナナを食べていると。かつての担ぎ屋の一部が今でも生き残り、小型トラックに自家産を始めとする山形の野菜や果物を積んで、商店から遠い集落をまわって売って歩く。そのさいお得意さんの要望に応えてさまざま品揃えをして売る。そのときにバナナも欲しいと言われるので、それに応えるべく仕入れて売る。山形の人が売っているので、山形産のバナナだと笑うのである(最近はどうなっているかわからないが)。
 なぜ仙台の人がそれをやらないのだろうか。仙台産、せめて宮城県産の野菜を、さらにお得意さんの声に応えてさまざまな品物を売ろうとしないのだろうか。また、なぜ農家は野菜の自給を考えないのか。自然条件の悪さは技術的にかなり解決できるようになっているのに。
 仙台には就業機会がたくさんあるので、そんな行商をしたり、自給野菜をつくったりしなくとも生きていけるからかもしれない。それにしてももったいない。これだけの地元需要を地元で満たしていくことが考えられないのだろうか。こんなことを考えるのは山形人だからなのだろうか。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR