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農家生活の向上(6)

  

            ☆「はえびょうたがり」の解消

 「あそごのうづ、『はえびょうたがり』なんだど」
 (あそこの家、 「肺病たかり」なんだって)
 怖そうに友だちが言う。そして近づくなと注意する。何だかよくわからないが、恐くなってその家の前を早足で駆け抜ける。
 肺病たかりとは肺病に罹っている人のことを言ったのだが、肺病つまり肺結核は大変な病気だった。かかったら死ぬしかない。しかも人にうつる。いうまでもなくみんな嫌った。しかし当時の衛生事情と栄養事情から患者は出る。女工に売られていって結核になって帰されてくるものもある。製糸工場は働くだけ働かせ、帰りたくとも帰さないくせに、病気になるとすぐに引き取れと戻してよこす。入院はもちろん、診てもらうカネもない。栄養をとればなおると言われているが、卵一つ食べさせられるわけではない。家の裏の陽も当たらない暗い小さい部屋にひっそりと寝かせられ、死ぬのを待つ。

 戦後はこんなことがなくなった。学校ではツベルクリンの注射をされ、赤く腫れると精密検査を受けさせられ、そうでないとBCGの注射を打たれた。職場でもそうだった。つまり結核の予防と感染の防止に政策的に取り組み始めたのである。そして罹患して症状が重ければ強制的に入院させる。カネがないものには補助も出す。保険制度も整備されてきている。結核に関してはカネがないから入院させられないなどということもなくなってきた。
 ペニシリン、ストレプトマイシンなどの特効薬もでき、切開手術などもやるようになってきた。かつてのような不治の病ではなくなってきたのである。

 それでも当時はやはり長期療養が必要だった。大学四年(一九五七年)の時、たまたま友だちがもっていた結核療養患者の同人雑誌を見たら、入院している女性の書いた次のような詩があった。
  「子ども等が
   母に 振る舞わんと
   取ってきた たにし

   兄弟(ふたり)して
   水を換え 水を換えて
   母の帰る日を待った

   噛んで 噛んで 
   母は
   かたいたにしを
   噛んで 泣いた」
 子どもの気持ち、母の気持ちが胸を打ち、強烈に印象に残った。それでその詩に自分で曲をつけたりもした。雑誌の名前も、詩を書いた人の名前もまったく記憶にない。しかしその詩だけはいまだに脳裏に焼き付いている。

 学校での注射といえば、戦前も種痘と予防注射があった。種痘(当時は疱瘡と呼んでいた)はチクッと刺すだけで痛くないと言う評判があるので安心だが、幼いころからきらいだった注射となると、校医の前にずらっと並んで順番を待つ間、こわくてブルブル震えてしまう。とくに腸チフスの予防注射は胸に針を刺すのでもっとこわい。ところが家内は種痘の記憶はあるが、小学校での予防注射の記憶はないという。都市部と農村部の違いなのかどうかはわからない。
 それにしても今考えると不潔なものだ。注射器に五人分くらいの薬液を入れ、同じ針で五人に注射するのである。注射が終わるたびにアルコールで針を拭くとはいっても、今では考えられない。何人かは腸チフスの予防注射の後に熱を出した。私などは必ずといっていいほど熱が出た。
 こうした予防注射は校医が来てやってくれるが、トラホームの予防や治療はお寺などに看護婦さんがきて地域ぐるみを対象にしてやってくれた。といっても今の若い人たちにはトラホームとは何かがわからないかもしれない。今はトラコーマというそうだが、ほとんど見られなくなっているからだ。それだけ清潔になってきているのだろう。かつては流行目(はやりめ)とも言ったのだが、目がかゆくなる、赤くなる、目やにが出てくる、こうなったらまちがいなくトラホームである。放っておけば結膜炎になり、失明までする。実際に私の同級生の一人はこれで片目を失明している。煙い台所仕事、暑いさなかの農作業の汗などで目が弱っている農家の女性も罹患しやすく、失明しやすい。そしてこれはものすごい伝染力をもっていた。そこで流行すると、お寺などに看護婦さんが何日間かやってきて、地域の人すべてを対象に、無料で、ホウ酸水で目を洗って予防してくれ、また治療してくれる。もちろんひどくなれば医者に行く。そして白い眼帯をしてもらう。おかしなものでそれが子どもにはうれしい。かっこよくなったように思えた。家内などは真っ白な眼帯をしている妹がうらやましくて、トラホームをうつしてくれと頼んだそうだ。でも家内は集団予防のような体験はないという。

 まだまだ医療の面では都市と農村の較差はあった。たとえば山形県西川町の西側の地域、ここは山形から鶴岡、酒田に抜ける国道一三二号線が通っているが、冬になると豪雪で国道も通れなくなり、国道から枝状に散らばる山村集落からはもちろんのことすべての地域で、病院のある町中心部に行くことはできなくなる。しかし、どうしようもない大病となると、病人をそりに乗せ、隣近所から何人か人が出て引っ張り、病院に連れて行く。ただしそれは晴れた日でないとだめだ。吹雪などに遭ったらみんな遭難してしまうからである。好天候の続くであろう日をねらって朝暗い内に出発し、夜ようやく病院にたどりついた。当然手遅れで途中で亡くなる人がいた。それどころか天候の急変で途中全員遭難することもあった。こうした状況は一九六〇年ころまで続いた。こんなところは東北の農山村には普通にあった。
 これでもっとも犠牲を受けるのは当然のことながら弱いもの、とくに子どもである。それは東北の乳児死亡率の高さとなって現れている。なかでも岩手県は高かった。貧困に加えて豪雪地帯、交通条件未整備地帯、無医村を多くかかえていたからである。
 奥羽山脈の中腹、秋田県との境にある岩手県沢内村(現・西和賀町)の乳児死亡率は全国一だった。十一月から四月までの五ヶ月間雪に埋もれる、医者もいない、貧乏な村だったからである。しかし沢内村は、一九五七年から村長を先頭にして除雪体制の整備、医師の確保、乳児医療費無料化、乳児検診の徹底などに取り組み、一九六二年には乳児死亡率をゼロにした。これは日本で初めてのことであり、全国的に有名になった。なお、老人の医療費無料も全国に先駆けて実践している。どこの地域に住むものでも豊かに生きていく権利、生存権があるとの村長を始めとする村民の認識の高まりがそれをもたらしたものだった。

 やがて東北地方の道路は徐々に整備され、除雪もきちんとなされるようになってきた。どこの農村にも保健婦が配置され、衛生と健康に関する指導がなされるようになった。無医村をなくそうと、町村立の診療所も各地につくられた。徐々に整備されてきた国民健康保険制度は、不十分さはいろいろあっても、医療を受けやすくした。これをもたらしたのは戦後民主主義であり、それを基礎とする医療制度、社会保障制度などの充実だった。
 かくして東北の乳児死亡率は大幅に低下した。「はえびょうたがり」ももはや死語になった。

 ところが今また農村に医者がいなくなり、病院がなくなりつつある。大都市の病院に行こうとしてもバスが線路がなくなっているので、年寄りは行けない。保険料は高くなり、医療費の負担割合も増えてきている。戦後民主主義はどこへ行ってしまうのだろうか。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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