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農家生活の向上(7)

  

            ☆教育の機会均等の進展

 戦後の民主化と一定の農業保護政策のもとで、一九五〇年代には子どもを高校に入れるぐらいは農家でもできるようになってきた。そればかりでなく、地元の国立大学なら入学させることもできるようになった。私が大学に入学した一九五四(昭和二十九)年の授業料は年6千円であり、当時の公務員の大卒初任給とほぼ同じで、現在の貨幣価値に換算すれすれば年13~14万円(月額にすると約1万円)くらいでしかなかったからである。この程度なら、家からの通学であれば農家でも十分に入学させられる。
 ただし、生活費まで仕送りしなければならない大都市の大学に入学させるのは大変だった。当時は町に失業者があふれており、今のようにアルバイトがあるわけではなかったからましてやである。私が住んでいた学生寮にたまに一人か二人のバイトの求人がくると十人から二十人の学生が集まってジャンケンして決める状態で、なかなか当たらなかった。これでは自分で生活費を少しでも稼ごうとしても無理である。家からの仕送りに頼るより他ない。しかし農家にはそんな金はない。だから当時はまだ大都市の大学に子どもを出す農家は少なかった。農業後継者として家を支えるべき長男の場合はましてや外に出すわけにはいかなかった。
 私の生家の地域でも子どもを大学に入れる農家はほとんどなかった。

 父は、長男の私に小さい頃からよくこう言っていた。
 「いままで百姓は馬鹿でもできると言われてきた。しかしこれからの百姓はそうであってはならない。おまえが行きたかったら、高校はもちろん大学にも、どんなことをしてでも行かせてやる」。
 それで私は農学部に入った。それも東北大学にした。東北の農業を学ぶならやはり東北だろうということと、経済的な面から浪人生活ができない(当時は予備校が山形になかったし、あってもそんなところに通わせて金を使わせられるほどのゆとりはない)ので現役で必ず合格できるとはかぎらない東大はだめということからだった。
 大学が相対的に生家から近いとしても、現役で入ったとしても、学費、生活費がかかることでは変わりはない。そのお金を出してもらうのは心苦しかった。奨学金、寮生活、当時の学費の低さ等で仕送りの金額はかなり抑えられたとはいっても、仕送りのために今頃どんな厳しい労働を家族がしているのだろうと思うと、晴れた日などは辛かった。だから田植え、稲刈りには必ず帰って手伝った。後は夏休みにしか手伝えない。先にも述べたように、仙台と山形を結ぶ仙山線は当時二時間半もかかり、運賃も高かったからだ。日曜日に雨が降るとほっとした。そして遊びにでかけられた。家族も今日は休んでいるはずだからである。
 大学の卒業式に祖父母がどうしても出たいと仙台にきた。式が終わって駅前の食堂に入ったら祖父がビールを飲みたいという。コップ二、三杯飲んだ頃だろうか、突然祖父が顔を覆った。そしてつぶやいた、「おまえが東北帝大を卒業したなんてな」と。両手の間からあふれてくる涙が見えた。感極まったのだろう。百姓の子どもが、ましてや自分の孫が旧帝大までいけるなんて昔は夢にも考えられなかったことだからだ。

 一九五八年、国立大学の授業料は年9千円に引き上げられた。しかしそれも公務員の大卒初任給(インフレ下で引き上げられていた)とほぼ同じであった。こうしたことから徐々に農家も子どもを大学に入れるようになった。さらに、当時の農産物価格は相対的に高くなっていたので、一定の経営面積があれば、そして親子ともちょっと経済的に我慢すれば、遠隔地の大学にも入れられるようになった。
 こうして一九六〇年代には、農村部でも高校には子ども全員入学させるようになり、長男も高校ばかりでなく道府県立の農業講習所(後の農業大学校、農業実践大学校)や農業短大に入れようとする時代になってきた。もちろん、四年制大学にも行くようになってきた。
 戦後、教育の機会均等が謳われたが、名目的にだけでなく、経済的にもそれが可能になったのである。

 それから約五十年後の現在(〇六年)、国立大学(上に旧とつけるべきなのかもしれないが)の授業料はいくらになっているのかとある国立大学の準教授ST君に聞いたら、53万5800円ということだった。これは現在の公務員の大卒初任給の約三倍に当たる。つまり私のころから比べると実質三倍の値上げということになる。十五年前と比べても二倍になっていると当時学生だったST君は嘆く。
 もう一方で、小さい頃から塾に入れ、有名私立高校を出なければ名門と言われる国立大学には入れなくなったと最近言われるようになっている。また、宮城県などでは公立高校の学区制を廃止し、高校間で格差をつけようとしている。当然農村部の高校のレベルは下がる。何とかしようと思えば大都市の高校に遠距離通学するか、下宿するより他ない。
 要するに金持ちでなければ、大都市に住むものでなければ、国立大学に行けなくなっているのである。しかも国立大学は法人化(一種の民営化)し、採算を考えなければならなくなった。授業料はこれからさらに上がることになろう。そうなったらますます貧乏人は国立大学に入れなくなる。
 戦後ようやくかちとられた教育の機会均等の権利が失われようとしている。お金持ちの、受験のテクニックの教育を受けた子弟だけが入る大学、貧乏人や地方に住む子どもは入れない大学、こんな大学は荒廃しかない。日本の学問のレベルは低下の一途をたどることになるだろう(こんな予測が外れるように大学人が国民とともに大学のあり方を変えるべく努力してもらいたいものだ)。

 それはそれとして、ともかく一九六〇年代には農家の子弟も大学に入るようになり、大学卒業者が農業の担い手となるという時代が展望できるようになっていた。
 しかし、その展望はいま夢と消えようとしている。そうさせた根本原因である外国農産物の輸入が奇しくもちょうどその頃から本格的に始まったのである。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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