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農家生活の向上(8)

  
    ☆忍び寄る小麦色の影

 生産と生活ばかりでなく農村社会も変わった。土地所有関係や本分家関係によるむらのなかでの農家の序列、格差、発言権の違いなどが農地改革により大きく変わる等、むらの民主化が進んだ。青年たちも青年団や4Hクラブ等に参加し、古い慣行の残るいえとむらの変革に取り組んだ。 
 こうしたなかで農村は徐々に変化していった。しかし、経営面積の差や地域による貧富の格差は厳然として存在し、過重労働は基本的に変わらず、都市と農村との所得格差は広がる一方であった。
 さらに、小麦色の影がアメリカから日本の農業に忍び寄ってきていた。

 アメリカは戦火に巻き込まれた国々に売り込むために戦中から戦後にかけて食糧を増産してきた。しかし各国の農業生産が復興してくるなかで農産物は売れなくなり、大量に余るようになつてきた。そこでアメリカは一九五一(昭和二十六)年MSA(相互安全保障法)を制定し、日本などの国々に小麦を始めとする食料援助を行って余剰農産物を処理することにした。さらに一九五四(昭和二十九)年には、余剰農産物処理法(PL四八〇法)を制定し、輸入農産物の代金は後払いとしてその一部はその国の経済復興とアメリカ農産物の市場開拓費に使えるようにした。日本の政財界は積極的にそれを受け容れた。外貨不足で困っていた財界は、後払いとなった輸入農産物代金を機械や原料などの輸入にあてて工業生産の発展を図ろうとしたのである。そして政府は小麦を低価格で大量に輸入した。
 それはまずわが国がこれまで力を入れてきた小麦の増産にストップをかけ、さらには生産を減少させた。私の生家でも引き合わない麦の栽培をやめた。米単作といわれる宮城仙北でも家の裏山につくられたわずかの畑で小麦や大麦をつくっていたが、どうしようもなくなってきた。それでビール麦に切り替え、その定着に努力した。しかしそれも結局だめになり、東北の麦は姿を消すことになった。
 麦の「安楽死」はこの一九五四年から本格的に始まったのである。それだけではなかった。余剰農産物処理法はわが国の米の消費と生産に大きな影響を与え、後に東北農業の中心をなしてきた稲作を脅かすことになった。

 一九五五(昭和三十)年ころから、「米を食うと脳溢血になる」、「米を食うと早く年をとり、命が短くなる」、「米を食うと頭が悪くなる」、「粒食をするのは後進民族であり、粉食は文明民族である」、こんな言葉が新聞雑誌、ラジオ、書籍のなかにしょっちゅう見られるようになった。そして、マーガリンを塗ったパンと牛乳、それにハムエッグが欧米流の朝食であり、これこそ「進んだ」「近代的」欧米型食生活である、「パン食は健康にいい」、「パン食をしないから日本人の身体は小さい」、こうしたパン礼賛ムードをマスコミはあおった。栄養学者はそれを科学的に裏付けたと称し、栄養士は栄養改善運動を展開してそれを宣伝普及した。これは敗戦国日本人の劣等感を刺激した。われもわれもとあこがれのアメリカの小麦を使ったパン食に移行し始めた。それはまた、本格化し始めた高度経済成長にともなう都市の肥大化、通勤時間の増加、遅い夜食、朝食時間の早朝化と短縮などによって拍車をかけられた。
 一方、全国の町や村のまだ舗装されていなかったでこぼこ道路をピカピカのキッチンカー(料理実習講習車)が埃をまきあげながら走り、パン食を教え、アメリカの小麦を使った料理を普及して歩いた。都市の栄養士ばかりでなく、生活改良普及員も農家のご婦人を対象に講習会を開いて小麦(もちろんアメリカの)を使った料理法を教えた。
 同時に、政府は学校給食を全国の小学校で実施するように、しかも完全給食と言うことで必ずパンを主食として出すようにした。アメリカ産の小麦と脱脂粉乳が全国の子どもに毎週五日必ず供給されるようになったのである。
 こうして小麦食が全国に普及するようになってきたのであるが、その普及のためのお金、つまり宣伝費からキッチンカー代、学校給食への補助金、栄養学者・栄養士の動員費等々まですべてアメリカが提供したものであった(ただしそれはアメリカの余剰小麦を買うのに日本の消費者が払った金の一部、つまり後払いとなった小麦輸入代金を用いた市場開拓費だったのだが)。それを明らかにしたのが、一九七八(昭和五十三)年十一月に放映されたNHK特集『食卓のかげの星条旗 米と小麦の戦後史』であった。小麦の消費拡大を狙うアメリカの組織的な売り込み計画に政財界、マスコミが協力し、栄養学者の一部をまきこんで日本人の食生活を大きく変えたのである。この小麦戦略がこれほど成功した国は世界中にない、「呆れるほど見事な成功例」だとアメリカが評価したという。これはいかに日本政府がアメリカのいいなりになったか、日本の学者や消費者がアメリカ文化にいかに弱かったかを示すものであろう。そしてそれが後の米の減反につながることになる。
 しかし当時はこうしたアメリカの動きやねらいがわからなかった。当然それが健康や農業に及ぼす深刻な影響もわからなかった。

 一九五〇年代は、いろいろ問題は残っていても、ともかく民主化が進み、農業生産力も発展し、農家の暮らしもよくなってきていた。しかし、ちょうどそのころアメリカの小麦色の影が日本農業に忍び寄ってきていたのである。そして一九六〇年以降その影が本格的に日本を覆うようになり、農業、農村は大きく変えられることになる。(第二部に続く)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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