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貧しい食と厳しい労働(4) 



            ☆やませ―サムサノナツ―

 仙台の冬、空っ風が冷たく吹いて雲一つない青空が広がる。しかし西に連なる奥羽山脈の上には雲が平らに一直線となって低くかかっている。そうすると、この山脈の向こうにある山形は雪だ、西高東低の冬型の気象だということがわかる。実際に山形に行くと空はどんよりと灰色にくもり、雪がちらちらと降っている。

 山形の夏、東にそびえる奥羽山脈の山々の頂上に雲が綿のようにかかり、それが山の傾斜に沿って滝のように下に流れ降り、やがて途中で消え去る。その下の山麓は緑で染められ、上を見上げれば真っ青な空にさんさんと日が照っている。涼しく乾燥した風が東から吹いてくる。そうすると仙台の方は「やませ」だ、曇りか雨だということがわかる。実際に奥羽山脈を貫くトンネルをぬけて宮城県側に出ると霧がかかってじとじとと湿っぽく、気温はぐんと下がる。服をもう一枚着ないと寒いくらいだ。
 このやませ、つまり偏東風が太平洋岸に冷害を引き起こす。だから東風はきらわれる。
 ところがである。秋田県の田沢湖の近くの生保内という地域でうたわれる民謡『生保内節』(おぼないぶし)では、その東風をよろこんでいる。
   「吹けや生保内だし 七日も八日も
    吹けば宝風 稲みのる」
 この歌詞のうちの「だし」は「だし風」といって、東風のことなのだが、これが七日も八日も吹けといっているのである。これはおかしい。東風は冷害を引き起こすはずだからである。ところがそうではない。歌詞にもあるように、「稲みのる」のである。奥羽山脈を越えて降りてくる東風は、いわゆる「フェーン現象」で、熱い風となる。しかも湿気を山の向こうにおいてくるので乾燥している。稲には最高の条件だ。それで豊作となるのである。まさに「だし」は「宝風」なのである。
 この生保内だけではない。日本海側の多くがそうである。奥羽山脈の起伏が低くて太平洋岸からやませが吹き込む地域は別にして、太平洋岸のようなやませの被害は受けず、それどころか豊作になる場合すらあるのである。

 もちろん、東北の日本海側もやませの被害を受ける。奥羽山脈が低くなっていてやませが太平洋岸から流れ込んでくる地域などがとくにひどい。たとえば山形県最上地方である。宮城県の古川から鳴子を通り、新庄に行く街道の中山峠付近の山々が低くなっているが、そこからやませがなだれ込み、最上は被害を受けるのである。そしてそれは最上川沿いに流れ、庄内でも最上川周辺の地域の米の単収が低くなる場合もある。
 山形の民謡『最上川舟歌』の二番にこんな歌詞がある。
   「やませ風だよ あきらめしゃんせ
    おれを恨むな 風恨め」
 これは、やませのために身売りされる娘に対する家族の詫びの歌なのではなかろうか。やませのせいで身売りさせざるを得なくなったのだ、申し訳ない、あきらめてくれと。もちろんそれは深読みだといわれるかもしれない。風のために会いにいけない、自分のせいではないという恋人への単なる弁解の歌なのかもしれない。それでも、あの哀調こもる歌を聞き、また歌うときには、やはり私は冷害と結びつけてしまう。
 やませばかりではない。北方に位置する東北はやはり寒冷地であり、さまざまな気象変動で東北全体が大きな被害を受ける。一九三四(昭和九)年などがその典型だ。この年はお盆のときでさえ褞袍(どてら)を来ていなければならないほど寒かったと私の父は話していた。この年は記録的な大冷害であり、例外的といえるくらいにひどかったのだが、東北地方は少なくとも十年に一度くらい寒さの夏にあう。
 この冷害からいかに脱却するか、東北の農民はこれに苦労してきた。それでも何ともならず、「サムサノナツハ オロオロアルキ」するより他なかった。

 私の生家から二十㍍くらい東の方を国道十三号線が走っていた。それはかつて産業道路と呼ばれていた。コンクリート舗装され、歩道もきちんと整備されている。当時としては珍しく広い近代的な道路である。ものごころついたときはあったのだが、私の生まれる直前に昭和九年の冷害対策の救農土木事業で新しくつくられたとのことであった。だから産業道路と言われたらしい。そしてこの道路の新設にともなってここが国道となり、それまでの国道は旧国道となったとのことである(七〇年代に新しくできたバイパスが現在の十三号線になっている)。
 このようなさまざまな救農土木事業が東北一帯で展開され、それで飢えをしのいだ農家もあったが、貧しさは解決されなかった。

 農業とくに東北の農業は厳しい季節性に規制されている。冷害、干害、湿害、雪害、病虫害等の災害は絶えず襲ってくる。河川の氾濫や大雨による地崩れ、地震、津波等の自然災害は、農地や水路などの生産諸条件の喪失を引き起こす。
 このように自然条件に左右されるところに収穫量の半分もおさめなければならない高率高額の小作料があるのだから、生活が楽なわけはなかった。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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