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駅裏―さなぎ女学校―




               高度経済成長前夜の東北(1)

                ☆駅裏―さなぎ女学校―

 「下町」、この言葉を聞くと、貧しいけれども人情味のある庶民の町とのイメージがわいてくる。
 同じ下町でも、アメリカのダウンタウンというと、喧噪と汚い町とのイメージが頭に浮かぶ。もちろん人種問題も浮かぶが、それに付随する暗さは感じない。バイタリティすら感じる。
 ところが、「裏町」となると、下町と似た言葉なのにまるっきり違う印象を与える。辛い人生を送った人たちがひっそりと息を詰めて暮らしている陽の当たらない暗い町となる。私の生まれた頃に流行った『裏町人生』という歌を聞けばそれがよくわかる。
  「暗い浮世の この裏町を
   覗く冷たい こぼれ陽よ
   なまじかけるな 薄情け
   夢も侘びしい 夜の花------」

 そもそも「裏」は良い意味では使われない。人間に裏表があるというときの裏を考えればよくわかろう。裏は暗くて表は明るい、表は前で裏は後ろという意味でも使われる。裏通り、裏道、裏口(入学)、駅裏、すべてマイナスイメージだ。ともかく「裏」の印象はよくない。
 にもかかわらず「裏日本」という言葉を私たちは平気で使ってきた。慣用語となっていたからとくに何も感じなかった。しかしあるときふっと考えた。おかしいではないか。なぜ日本海が裏で、太平洋側が表なのか。たしかに日本海側は冬は陽が射さず、暗い。そこだけを見れば裏というイメージが出てくるかもしれない。しかし太平洋側だって梅雨の時期は日本海側よりも陽が射さない。なのになぜ日本海側だけを裏というのか。裏日本生まれの私としてはおもしろくない。裏日本出身者が自らを裏日本というのはまだいい。しかし太平洋側出身のものが日本海側を裏日本と言うのは許せない。それで抗議する、それは差別だと。
 たしかに今の太平洋側は新幹線を始め交通が便利であるし、大都市も政治や文化の中心地もそこに集中しているので、何か表のような気がする。しかし、日本海側は中国大陸や朝鮮半島、シベリア等の外国に向かい合っており、司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』を見てもわかるように、明治以前は日本海側に北海道から瀬戸内まで列島を縦断する高速交通路(北前船)があり、文化も発展していた。そういうものを表というなら当時は日本海側はまさに表だった。このように裏表などというのは相対的なものであって、そのような言葉で差別するのはおかしい(ついでに言えば「山陰」もおかしい。陰、何と暗い言葉だろう。島根、鳥取の人たちは何も感じないのだろうか。裏日本という言葉は公では使わなくなっているが、山陰は地図に載っている。実際に山陰は暗いところだから、人間も暗いから、何とも言えないのだろうなどと島根出身の若手研究者のST君を私は冷やかすのだが)。
 もちろん、裏日本と言われて抗議すると言っても、それは冗談交じりでまともに怒っているわけではない。私も駅裏とか表通り・裏通り、表口・裏口とかの言葉を昔から使ってきた慣用語として、とくに差別意識もなく、普通の感覚で用いている。
 しかし仙台の「駅裏」というときにはどうしても特別な意味が入って使ってしまう。かつてそこに赤線地帯があったからだ。

 小さい頃、祖母と近所の人の茶飲み話を隣の部屋で聞くともなしに聞いていると、バンプヤという言葉が出てきた。意味がわからない。何か外国語のような響きがするが、あまりいい言葉ではないようである。
 まったく別の時に、大人たちがジョロヤといっているのを聞いたことがある。聞いたときは野菜などに水をやる如雨露(じょうろ)を売る店のことかと思ったが、それなら荒物屋でいいはずだし、話すときの口ぶりも何かおかしい。
 高校のころだろうか、それがともにいわゆる女郎屋つまり売春宿のことであることを知った。これはさらにもっと後でわかったことだが、バンプとは妖婦とか娼婦を意味する英語のvampのことであった。いつごろどの地方でだれがなぜこんなバンプ屋という英語で売春宿を呼ぶようになったのかわからない。
 公に認められていたこうした売春宿つまり公娼制度は、戦後の民主化により1946(昭和21)年廃止された。しかし実際になくなったわけではなかった。特例措置として地域をかぎって認められ、その地域は警察の地図に赤線で示されたという。それで売春宿のあるところは赤線地帯と呼ばれた。つまり廃止されたと言っても実質的な公娼制度は残り、女性の人身売買も残ったのである。
 こうした赤線地帯以外でアメリカ兵に春を売る女性はパンパンと呼ばれた。終戦直後の流行歌『星の流れに』はそうした女性を唄ったものであった。
  「星の流れに 身を占って 
   何処をねぐらの 今日の宿 
   すさむ心で いるのじゃないが
   泣けて涙も 涸れ果てた
   こんな女に 誰がした………
   飢えて今頃 妹はどこに 
   一目逢いたい お母さん………」
 この歌詞からもわかるように、戦争がここに身を落とさざるを得ない女性を作りだしたのである。仙台の駅裏周辺には彼女らがよくたむろしていた。

 「駅裏」、そうでなくてさえ何となく暗いイメージなのに、仙台のそこで生まれ育った人は自分でもそう呼んでいた。
 私が若い頃からよく行っているスナックのママさんも戦前そこで生まれ育ったのだが、実際に裏としか言いようがないのだからしようがないと笑う。なにしろ『草餅屋』があったのだからと。宮城県では売春宿を草餅屋と言うのだそうだが、その赤線地帯が駅裏にあり、さらにその近くの線路の上を通る陸橋(X橋と言った)には毎晩パンパンが客引きに立っていたのである。
 彼女はこうも言った。駅裏にはそれに加えて『さなぎ女学校』があったと。そんな女学校が駅裏にあっただろうか、「さなぎ」というのは聞き違えで別の名前の女学校なのか。改めて聞き直したらそれは製糸工場のことだと言う。戦前から戦後にかけて養蚕地帯の町や村に大小さまざまの製糸工場があったし、山形の生家の近くにもあってよくもまあこんなところで働けるものだと思うくらいうるさい音を出して糸を紡いでいたのだが、それが仙台の駅裏にもあったのである。
 それにしても製糸工場を「さなぎ女学校」と呼ぶのは初めて聞いた。それを耳にしたとき一瞬口がきけなくなった。だれがつけたのだろうか、何とぴったりした名前だろう、そして何と悲しい名前だろう。
 いうまでもなく繭から糸をとる工場だから「さなぎ」は副産物として大量にできる。それを生産しているのは小学校を出たばかりのたくさんの女の子である。その女の子が一ヶ所にたくさん集まっている。そのことだけで見ればそこは「女学校」のようなものだ。それをつなぎ合わせれば、つまりさなぎを生産する女の子がたくさんいる建物ということからすれば、まさしく「さなぎ女学校」となる。もちろん勉強などしているわけはない。ただただ働かされているだけだ。しかも集まっているのは無教養の貧乏人の娘だ。だから女学校などというのは一種の蔑称である。
 この「女学校」に集められたまださなぎのような女の子のなかには、長時間過重労働による病気やけがなどで成虫の蛾にもなれずに、蚕と同じように自分の紡いだ絹の着物を羽織ることもなしに、まさにさなぎのままこの世を去っていったものもあったろう。
 ほぼ同じ年代の女性(まだほんの一部でしかなかったが)が女学校に通っているときに、片や「さなぎ女学校」で親の受け取る前借金をかたに人身売買同然に連れてこられ、汚い宿舎に何十人、何百人と閉じこめられて環境の悪い工場で身体の続く限り働かされ、片や本当に身を売られて「草餅屋」で売春をさせられていた女性がいたのだ。戦後はそれに加えて戦争の被害者のパンパンもさまよっていた。
 駅裏はやっぱり暗かった。

 家内は宮城県の養蚕地帯の生まれなのに「さなぎ女学校」という言葉を知らなかった。最初聞いたとき女学校に行きたくともいけなかった製糸工場の女の子たちにつけてあげた何とも悲しい名前だ、でもいい名前だと思ったらしい。
 若手女性研究者のWMさんもそうで、「女性を蝶に見立て、蝶になる前のさなぎにあたる人がいる場所」ということでさなぎ女学校という名をつけたのだといい意味で理解したという(本当は蝶ではなくて蛾なのだが)。
 東北大のIF君は、年輩の社会人大学院生ならこの言葉を知っているかもしれないと思って聞いてみたという。栃木県出身のその大学院生は製糸工場だということを知っていた。そして教えてくれた、今は九十歳前後になる彼のお母さんがその昔ある友だちのことを「あの人はさなぎ女学校卒業だから…」と言っているのを聞いたことがあると。このお母さんは「あの人は女工あがりだ、だからだめなのだ」という意味で言ったのだろうか。それとも「だからがんばれるのだ」というような言葉がその後についたのだろうか。できたら後者であってほしい。しかしやはり女工とかさなぎ女学校とかは蔑みをこめた言葉だったのだ。
 ついでにと、この大学院生は次のことを教えてくれたという。「栃木では『鶏(とり)小屋』という表現もあった。これは純粋に女学校の比喩らしく、『卵しか生まない』の意味らしい」と。最近喧しい大学のセクハラ問題で困惑しているIF君は、「現代ではセクハラで訴えられる表現かもしれない」、こういって笑う。
 かつての女学校は花嫁学校だった。つまり子どもを産みに嫁にいく準備のために女の子が集まる場所であった。この点ではまさに「鶏小屋」、つまり卵を産むだけのためのめんどりが押し込められている場所と似ている。もっとうがって言えば、女学校も鶏小屋もともに、とくに働かないで食わせてもらって無精卵を排出しているものが集まっているという点で同じである。それでこんな風に呼んだのではなかろうか。そしてこの「鶏小屋」という表現は、「家」の維持のため、子どもを産むために嫁に行くのを宿命とさせられていた当時の女性の現実、他の女性は働いているのに女学校の女性たちは何もしないで食べていることに対するやっかみ、この両者の入り混じったものだったのではなかろうか。

 1954(昭和29)年、滋賀県にある近江絹糸の女子労働者が無期限ストに入った。そして勝利した。これをきっかけに女工哀史と言われたような長時間過重労働、基本的人権の無視は少なくなった。
 1958年には赤線地帯は完全に廃止された。いまだに残っていた戦前の名残り、前近代的な社会的な仕組みは徐々になくなっていった。これはまさに戦後民主化の、労働運動や女性解放運動の大きな成果であった。
 仙台の駅裏の「さなぎ女学校」、女工哀史を象徴していた製糸工場はなくなった。若い女性の進学も就業機会も増えた。
 女子高も単なる「鶏小屋」ではなくなってきた。とくに1975(昭和50)年の国際女性年以降、女性の地位は向上した。
 やがて仙台の駅裏は都市計画で広い道路が走るようになり、その両側には大きなビルが立ち並び、昔のイメージなど探そうにも探せなくなってきた。そして東口と呼ばれるようになり、駅の東と西とどちらが表でどちらが裏かなどとは言えなくなってきた。駅裏などと言うのはわれわれ世代だけになってきた。何ともいえず暗かったこの言葉が消える、これは本当にうれしいことだ。
 しかし、今の東口には駅裏というこんな歴史もあったのだ、そしてそれを戦後民主主義が変えてきたのだということだけは覚えておいてもらいたい気がする。そして戦後勝ち取り、また培ってきた民主主義を逆行させてはならないと再確認してもらいたいものだ。

 もう一つ見落としてならないことは、「さなぎ女学校」がなくなったのは仙台の駅裏だけではなかったことである。東北はもちろん国内のほとんどの製糸工場が高度経済成長期に消え去っていった。
 その代わりとなったのは途上国だった。かつての日本女性の低賃金長時間労働、女工哀史は途上国に輸出されたのである。製糸もそうした途上国の女性労働で担われることになった。そしてその生産物が日本に輸入されてくる。
 このようにわが国における女性解放の過程は途上国の女性が新たに低賃金労働者として資本主義に巻き込まれていく過程であり、またその過程はわが国の養蚕の衰退、桑畑の耕作放棄の進行の過程でもあったのである。



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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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