Entries

宮城・山形の亜炭、秋田の油田


                高度経済成長前夜の東北(4)

               ☆宮城・山形の亜炭、秋田の油田

 1955(昭和30)年ころのことである。風のない夕焼け空の下、仙台の住宅街を通ると、大人の背丈くらいの高さのところに、薄紫の煙がゆったりと水平にたなびいている。それといっしょにちょっと硫黄くさいような匂いがほのかにあたりにただよう。お風呂で亜炭を燃やしている煙である。その煙は目にしみないし、匂いもとってもいい。ときどき魚を焼く匂いがそれに混じる。もう夕ご飯である。生家から離れて一人寮生活を送っている私にはこれから始まるであろう家庭の団らんがうらやましい。同時に空腹を感じてくる。私には亜炭の燃える匂いとその煙は暖かい家庭を思わせるものだった。
 当時亜炭は風呂の燃料として家庭の生活必需品となっていた(註1)。
 学校でも必需品だった。暖房のストーブが亜炭だったのである。放課後、交代に回ってくるストーブ当番の生徒が亜炭置き場に行き、取っ手のついた楕円形の鉄製のバケツいっぱいの亜炭を入れ、教室に運んでおく。翌朝、生徒が学校に来る前に小使いさんがストーブのなかに入れていってくれた火種の上に、先にきた生徒が亜炭をくべる。なかなか暖まらないが、寒い中を歩いてきた子どもたちはストーブのまわりに集まって手や足を暖める。やがてストーブは熱くなってくる。しかし暖かくなるのはストーブのまわりの席に座っている子どもだけで、遠くに座っている子どもたちは寒い。休み時間になったときにストーブのまわりに集まるか、馬乗りや押しくらまんじゅうをしたりして自分で暖まるしかない。
 三時間目ころ、ストーブの上に直接みんなの弁当が何段にも積み重ねられる。冷たくなっている弁当を暖めるためだ。しかし、あまり高く積むと倒れる。数に制限がある。それでそこからあぶれたものはストーブのまわりに置く。その順序はジャンケンで決める。ときどき倒れることがあり、大騒ぎとなる。一番下つまりストーブの直接上の人の弁当は熱すぎてときどきご飯が真っ黒焦げになることもある。そうならないように時々上下の順序を取り替えるが、これが大変である。何しろ下においてある弁当、とくに一番下のそれは熱い。手袋をかけて何とかおろす。焦げた匂いがしたりすると授業中であろうとも取り替える。先生は怒らないで授業を中断して黙ってみている。そのうち弁当のおかずのこげる匂いが教室中にただよい、廊下にもそれがもれる。もうすぐ昼飯である。
 午後になるとストーブの火はなくなり、教室は徐々に寒くなってくる。昼休みころに燃え尽きる程度の量しか割り当てられないからだ。一日亜炭一バケツでは厳冬期にはとても間に合わなかった。

 亜炭の火力は石炭からくらべると弱かった。でも薪よりはずっと火持ちがよく、石炭よりも火がつきやすい。しかも価格は安い。その上、宮城県や山形県は亜炭の産地なので手に入れやすい。仙台に来て青葉城のなかにも炭坑があって亜炭を掘っていたのを見たとき、こんな街の近くでも採れるのかと驚いたものだった。仙台の近くの山を歩くと崖などの断層に亜炭の層がたまに見られるが、これがうらやましかった。自分で掘ることはできないものか、酒井炭坑を開設できないものかとさえ思ったものだった。石炭は鉄と並んで産業の基礎をなすもので、まさに「黒いダイヤ」と言われるほど貴重なものであり、亜炭はその石炭の親戚だったからである。
 私にとってこんなに近しい亜炭なのだが、今の学生はまったくわからない。亜炭という言葉を聞いたことすらないという。しかたがないから次のように説明する。
 泥炭と石炭の中間にあるもので、泥炭が何億年かすると亜炭になり、その亜炭が何億年かすると石炭になるのだと(正確ではないが)。石炭はもちろん知っている。泥炭は北海道出身者や東北の農村部出身者の多くは知っているし、中学か高校で習ったので記憶しているという学生もいる。それで大体理解してもらえる。
 亜炭がどんな形状をしているかは説明しにくいが、黒色の堅い石炭になる前のものだから黒褐色でややもろく、木目まで残っているものすらある、どんなものか見たいものは仙台のお土産屋に入り、埋もれ木細工という工芸品を見ればいいと言うことにしている。ただ、その埋もれ木細工の土産も少なくなった。亜炭坑がなくなったので、原料の入手が困難になったからである。

 日本にも油田がある、石油が採れるといっても学生諸君のなかには信用しないものがいる。かつて新潟や山形、秋田の日本海側の田んぼのなかに石油を汲み上げるやぐらが林立しているところがあったと言うと「うっそー」というような顔で私を見る。そこで言う、秋田市の北部や八郎潟のわきにある若美町(現男鹿市)に行って注意して見てみろ、かつてのようなやぐらはないがいまだに石油を採掘しているところがあると。
 1950年代までは小中学校で地理を習うときに用いる日本地図には炭坑と油田の地図記号が記載されており、それを見ると北海道や九州に炭坑が多く、新潟や秋田で石油が採れるということが一目でわかった。小中学校の社会・地理の授業ではそれは必ず覚えなければならないものだった。
 いつのころからであろうか、油田と炭坑の地図記号は日本地図から消えてなくなってしまった。
 いまの若い人たちに炭坑と油田の地図記号を知っているかと聞いてももちろん知るわけはない。私も何年見ていないだろうか。だから忘れかけていた。炭坑はつるはし(だろうと思う)二本を×状に組み合わせたもの(これは採鉱地つまり鉱山の記号)の下を線でつないだもの、油井は「井」の四隅の外に出ている線を縮めて「口」の字に近くしたものだったということを、最近ようやく思い出したほどである。
 当然である。1960年以降石油の採掘はほとんど廃止され、炭坑は閉山されたからである。亜炭はもちろんのこと、良質の石炭の出る炭坑も閉山された。東北を代表する福島県いわき市の常磐炭鉱もその例外ではなかった。仙台で亜炭坑が話題になるのは昔の坑道が陥没して田畑や道路などに被害を与えるときだけになった。やがてそれも聞かれなくなってきた。
 最後まで残っていた炭坑は北海道の釧路の太平洋炭鉱だったが、これも2002年になくなってしまった。それでも地元の熱意でその後を引き継ぐ(株)マインコールを立ち上げ、小規模の採炭を続けている。採炭技術を海外に移転する研修事業を行うためである。それはそれですばらしいことである。しかし明治以降多くの人々の血と汗を流しながらつくりあげてきた日本の優れた技術が日本からなくなってしまっていいのだろうか。経済大国と称する日本が、たとえ赤字であってもこうした技術を保存し、さらに発展させることが、なぜできないのだろうか。03年に農大の学生の研修旅行でここを見学させてもらったとき、そんなことを思い、何とも悲しくなったものである。

 いうまでもないが、日本産の石油、石炭の駆逐は、べらぼうに安い石油の大量輸入、安くて質のいい輸入炭によってもたらされたものであった。とくに戦前戦後を通じて産業のエネルギーの中心をなしてきた国産の石炭は、政財界のいうエネルギー革命の名の下に、石油メジャーの世界戦略で壊滅させられた。それに抵抗した炭鉱労働者は、1959~60年にかけての三井三池争議にみられるように、徹底的に弾圧され、追放された。何とか残った労働者も結局はすべて追い出されることとなった。
 このように、エネルギー革命は産炭地の衰退、過疎化をドラスティックにもたらした。それはいまだに跡をひきずっている。夕張市の財政破綻などはその典型といえよう。

 この石油輸入と同時に進められたのが、農産物の輸入であった。
 アメリカの圧力のもとに、一方では「エネルギー革命」の名の下に石炭産業を切り捨てて石油エネルギーに依存することにし、他方では「食生活革命」の名の下に食糧自給政策を放棄して農産物輸入を進め、食糧をアメリカに依存することを前提にした構造政策を展開することにしたのである。この食生活革命もまた農業の衰退、農山村の過疎化を引き起こした。
 このように、三井三池争議と安保改訂で始まる1960年代から日本の産業構造は大きく変わり、都市はもちろん農村も、日本中が、いい意味でも悪い意味でも、想像もできなかったような大きな変化をとげることになるのである。

 ちょっとだけ付け加えさせてもらいたい。
 さきほど青葉城(仙台城)で亜炭が採れるという話をしたが、この青葉城のある山(青葉山)の奥の方には東北大の理工系学部、宮城教育大、旧ゴルフ場があり、さらにその奥に住宅地が広がっている。実はこの辺は戦後開拓地だった、しかもその下には亜炭の坑道が走っていた、こういうと若い人はもちろん高度経済成長期以降仙台に定住した人も驚く。今はその片鱗すらうかがえないからだ。
 そうなのである、この広大な土地は戦前は原野で、陸軍の演習場(練兵場と言った)があり、そこが戦後の食糧増産、引揚者対策のために開拓地として払い下げられたのである(一部は米軍の演習場として残されたが)。私が仙台にきた1955年ころにはほぼ開墾が終了し、そこには畑が波を打ったように広がっていた。
 問題はその畑がときどき陥没することだった。縦横無尽に掘られ、やがて廃坑となった亜炭の坑道が陥没するのである。かつての労働者の地位の低さ、超零細業者の経営などからして保安設備等ろくに備えていない坑道しか掘らなかったろうし、掘り終わった後は知らん顔だから、簡単に崩落する。何年かするうちにその坑道がだれのものかもわからなくなっている。たとえわかっても超零細業者だから補償などする金はなし、廃業・倒産している場合もある。だからだれも補償してくれないし、補修もしてくれない。どこをどう坑道が走っているかすらわからないので、いつどこが陥没するかわからない。
 そもそも無一文で入植、しかも開拓したばかりで土地の生産力が低い、そこに陥没とくるものだから、その暮らしは大変だった(註2)。
 この地域の開発が60年代後半から進んだ。そしてその姿形はまるっきり替わり、今はどこが開拓地だったのかまったくわからなくなっている。しかし、ここは兵士・坑夫・開拓農民の汗と涙が染みついた土地であり、戦前は日本軍国主義を支えた土地、戦前戦後はかつての大事なエネルギー源だった亜炭を産出してくれた土地、そして戦後は食糧不足の解決に寄与しようとしてくれた土地だったのだ。このことが忘れ去られていく。それでかまわないのだろうが、何となく心に引っかかる。そこでついつい脇道にそれてここに書いてしまった次第である。

(註)
1.当時の東北における家庭の暖房は、前にも述べたように囲炉裏・火鉢・こたつ・行火であり、薪や炭が使われ、亜炭は風呂にしか使わなかった。なお、厳寒の北海道では家庭でも学校でもストーブが暖房であり、薪と石炭(北海道には豊富な炭田があった)がその燃料だった。これについてはまた後に述べたい。

2.(追記) この記事の執筆後、この青葉山の開拓地のことについて生々しく書いている短編小説・高城高「廃坑」を発見した。なお、これが収められている文庫本(高城高『凍った太陽』 創元推理文庫 2008年)には他にも1950年前後の仙台の状況が書かれている。非常におもしろかったことをご紹介させていただく。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR