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盆地から出られる修学旅行―戦後の再開―




          敗戦前後の盆地の小都市・農山村と修学旅行(4)

           ☆盆地から出られる修学旅行―戦後の再開―

 子どもの私にとって生家の南に広がる田畑は本当に広かった。
 北にある山形の市街地、これは大きかった、迷子になりそうな大都市だった。
 幼い子どもだったからそう感じたのだろうが、徒歩が移動の主要な手段だったからそう感じたこともあったのではなかろうか。
 自家用車などもちろんなく、汽車・バスはあったが路線も本数も少なく、運賃はきわめて高く、めったに乗ることはできず、歩くしかなかったから、ましてや体力のない歩幅の狭い私たち子どもにとっては、広く、大きく、遠くに感じたのかもしれない。
 それは町の子であれ村の子であれ基本的に同じだったが、交通機関にも経済的にも恵まれていない農山村部ではとくにそうだった。バスなど一切走っていない町村も多々あった。したがって、生まれた地域以外の遠いところに行くことはなかなかできなかった。ましてや子どもはそうだった。住んでいる地域のなかにまさに閉じ込められて育った。
 もちろん、母の実家などの親戚の住む地域に連れていってもらうことはあった。幼いころの私も何回かその経験がある。そしてその地名はいまだにはっきり覚えている。親戚は、名字や名前ではなく、たとえば「若木」(註1)とか「荒谷」(註2)とか、地名で呼んでいたからなおのことである。私がよく連れて行ってもらった親戚の家の地名(旧町村名もしくは字名)を南から北に向かって言ってみると、上山(かみのやま)、元木、堀込、飯塚、若木、香澄町(旧市内)、新築(旧市内)、鈴川、青柳、荒谷、上荒谷、清池、貫津、天童となる(註3)。
 それから湯治等で温泉に連れていってもらうことがある。私の場合は上山、蔵王高湯、天童、銀山に行っている。
 こうして見ると、私の行っているところは、銀山温泉以外すべて山形盆地の南部、しかも生家からの直線距離でいうと15㌔圏内、今なら車であっという間に行けるところである。それでも歩いたら大変だ。もっとも遠い天童、次に遠い上山は鉄道があり、母の実家も途中まで汽車で行けるが、それ以外は徒歩だった。もっとも大変だったのは西の白鷹丘陵の中腹にある若木までの約8㌔、しかも最後は上り坂、子どもの足ではけっこう大変だった。だからめったに行けなかった。
 それでも当時は歩くのが当たり前、それに行くのが楽しかった。違った世界を見る、体験することができるからだ。歩きながら見る景色の変化もいい。たとえばいつも家から見ている山々の形が遠くからあるいは違った方角から見るとまるっきり変わる。集落や家々のたたずまいも場所によって変わる。家屋の中も地域により家によりかなり違う。こんなことを感じるのも楽しかった。
 しかし、それでも海も平野もない険しい山々に囲まれた狭い盆地内、しかもその南部を歩いただけ、まさに井の中の蛙、いや盆地の中の蛙だった。
 たまたま私の場合、5 歳のとき函館、小二のとき酒田、仙台に行く機会があり(註4)、海を、他県を見ることができた。でも空は広かった。あの山の向こうはどうなっているのか、こっちの山の裏側に何があるのか、この川を下ってあるいは上っていけばどこに行くのか、行ってみたかった、見てみたかった。本で見るあるいは人の話で聞く東京など大都会にももちろん行きたかったし、日本一の富士山は見たかったし、雑誌の広告などに出ていた遊園地にも行ってみたかったし、船や電車などいろんな乗り物に乗ってもみたかった(でも、おかしなもので外国に行きたいなどとはあまり思わなかった、そもそも行けないところ、別世界だと考えていたのかもしれない)。
 いうまでもなくそれは私だけではなかった。しかし、希望は簡単にはかなえられなかった。子どもをあちこち遊びに連れて行けるほどの金も暇も親にはなかったからである(もちろん地主や大商人、高給取りは別だったが)。そもそも親たち自身がまともに旅行などしたことがないという家もあった。まさに閉ざされた社会、盆地の中に閉じ込められた社会に住んでいた(註5)。
 だから、子どもたちはよその地域のことは話を聞いて、教科書や本、新聞を見て、そこに載っている絵や写真を見て想像するしかなかった。でもやはり盆地の外をのぞいてみたかった。よその土地を歩き、見たことのない景色を眺めて見たかった。私の生まれた内陸地域、盆地の子どもたちはとくに海を見てみたかった。海を見ないで一生を終わる人も年寄りにはいたが、そんな風にはみんななりたくなかった。
 その希望をかなえてくれるのが修学旅行だった。まったく知らない遠くの土地にしかもめったに乗れない汽車に乗って行ける、旅館に泊まることもできる、わずかであっても小遣いはもらえ、買い物もできる。しかもそれは同級生といっしょだ。いっしょに遊んだリ、探検したり、泊まったりすることもできる。こんな楽しいことはない。
 学校行事なので親はよほどの事情がないかぎりその参加を許してくれる。旅費も個人で行くのと違ってきわめて安いからなおのことである。
 たとえば遠隔地に行くとなるとかかる汽車の料金は当時はきわめて高く、なかなか乗れなかった。一般庶民には汽車に乗って遠隔地に物見遊山に行くなどということは考えられなかった。しかし、列車には団体割引がある、しかも子ども料金、それに先生が連れて行ってくれるのだから付き添いの料金もかからず、ちょっと無理すれば旅費くらい出せる。もちろん遠隔地に行くとどうしても宿泊費が必要となるが、団体で宿泊するのでこれまた安い。そして自分の住む地域にはないものを直接見せたり、できないことを体験させることができる。だからよほどの事情がないかぎり、親は許してくれた(それでも何人か行けない子どもがいたが、このことについては後に述べる)。
 だからみんな、わくわくしながら待ちに待ったものだった。

 ところが、戦時中の子どもたちの修学旅行は中止された。輸送も食料もすべては戦争のためという非常時、旅行をして遊ぶなどということは許されなかったのである。
 ただし、大都市部の子どもたちは強制疎開という農山村への長期旅行をさせられた。そこは未知の地であり、新しい体験ではあったが、言うまでもなく楽しい修学旅行とはまったく異なった。いい思い出などつくれるわけもなかった。私の通った小学校の生徒たちも都市部にあったことから疎開と言う旅行をさせられた。
 一方、農村部の子どもたちは疎開という旅行はしないですんだが、修学旅行でみんなといっしょによその世界を見るという楽しみを奪われた。

 戦後疎開はなくなった。平和になった。しかし戦後の混乱、戦災や燃料・電力不足、食料不足のもとで修学旅行をするなどということはもちろんできなかった。
 ところが何と、私が小学校六年のとき、敗戦からわずか2年にして修学旅行が復活した。ついていた、うれしかった。そして新制中学時代には大都市東京に行くこともできた。そんなこともあって修学旅行のことはよく覚えている。といってももうあれから70年近く経っており、記憶は薄れるばかりである。
 そこで先日、高校の時の同級生としばらくぶりであったとき、4~5人に小中時代の修学旅行のことを聞いてみた(註6)。みんなかなり忘れていた。でも強烈に印象に残っていることはすぐに話してくれた。
 そのとき驚いたことは行き先がみんな同じではなかったことである。同じ旧山形市周辺だったのにかかわらずである。もちろん、当時はそれぞれ都市部、農山村とかなり地域性が異なり、当時の交通事情ではお互いかなりの距離感をもっていたが、現在はすべて山形市に合併されている同じ市域、にもかかわらず行き先がかなり違うのである。驚いた。修学旅行の行き先は学校の裁量で決められていたのである。まあこれは当然かもしれない。地域の条件はかなり異なるので、いかに統制・強制好きの政府であっても、地域性を無視することはできなかったのであろう。だからみんな違ったのだろう(註7)。

 そこで、たまたま話を聞けたST、IZ、AH、AR君と私の修学旅行記を書いてみよう(註8)と考えた。敗戦直後の混乱期・交通不便時代の、また当時の地方小都市と農村の修学旅行はどんなものだったかの記録もあっていいのではないかと思ったからである。そんなことで先日、前に聞いたことを確かめるために電話してみた。
 そしたら何と、AR君は屋根の雪下ろしでけがをして入院、IZ君は心臓手術で翌月入院予定、ST君は物忘れが多くなったとぼやき、私は私で手術で退院したばかり、これも80歳なのだからしかたがないのだが、まあみんな満身創痍である。記憶は消えるばかりで、なかなか思い出すことはできない。それでも何とか努力をして思い出そうとし、いろいろと私に教えてくれた。
 それをもとに私なりに整理して紹介してみたい。といっても私の体験談が中心とならざるを得ないし、他に多数ある小中学校のうちのわずか五つでしかない。しかも海から遠く離れた東北内陸部に位置する盆地の中の小都市・農村・山村の、さらに戦後すぐのころの修学旅行に限られている。しかし、それがどんなものだったかを記しておくこともあっていいだろう。そんなことから、改めて思い出す限りで、聞けた範囲内で書いてみたい。

 その前にここで登場してもらう4人の同級生の生家の地域・小中学校の場所について簡単に紹介しておきたい。
 まずST君、山形市の中心部育ちで小学校は県庁(当時)の近く、まさに市の中心部に位置している。中学は旧山形城・旧陸軍連隊跡地、私の通った中学のすぐ隣にあるが、生徒のほとんどが非農家、それで町場の中学校と言うことができる。
 Z君は、山形市の中心部から数㌔北部にある純農村(もちろんこれは当時のこと)の生まれであり、彼の通った小学校はほとんど全員農家の子どもだったが、中学校ではより都市近郊の小学校と同じ学区になった。それでもまだ農村的性格は強かったといえる。
 AH君は、これまで何度か本稿に登場してもらったが、市中心部から直線距離で北西10㌔くらいのところにある純農村部の小学校、中学校に通っていた。
 AR君は山形市の東南、私の生家の地域からすぐ隣りの村の小・中学校の卒業だが、ここは今まで述べたなかでは唯一山村的性格をもっている。
 そんなことから最初は私の体験を中心にST、IZ、AH君の体験と比較しながら当時の修学旅行の話をし、最後に山村的性格をもつAR君の地域の修学旅行について別途節を改めて述べることにする。
 なお、IZ君の村は敗戦直前に、AH、AR君の村は昭和の大合併のときに山形市に合併しており、その後宅地化が進む等で現在は大きく変わっているが、いずれにせよ盆地のなかの隣接する小中学校だった。

(註)
1.山形語では若木を「わがぎ」と呼んでいたが、もちろんそれは「わかき」である。下記の本稿掲載記事に書いたキツネの鳴き声の話を聞いたのはこの「わがぎのおばはん」(若木のおばさん)=若木に嫁に行った祖母の妹の家でだった。
  15年5月25日掲載・本稿第七部「☆キツネとタヌキの今昔」(4段落)
2.荒谷はこれまで何度も本稿に出てきたが、ここはかつて山寺村、今は天童市であり、母の実家のある集落だった。
3.もう80年近くもなるのだから付き合いがまったくなくなっている親戚もあり、また宅地化や道路の整備、農地の形状の変化等々もあってもう私にはそれらの家がどこにあったかわからなくなっているところもある。
4.10年12月24日掲載・本稿第一部「☆男の涙」(4段落)、
  11年1月12日掲載・ 同 上 [☆閉ざされた社会」(1段落)、
  13年10月14日掲載・本稿第六部「☆山羊の乳運び、同級生の死」(7段落)参照
5.11年1月12日掲載・本稿第一部「☆閉ざされた社会」参照
6.なお、私たちの高校には修学旅行がなかった。

7.私と高校の同級で高校教員を長く勤めたAR君(これから何度も本稿に登場いただくことになる)はこのことについて次のように言っている、。
 「遠足や修学旅行に法、通達、指導要領などによる指導や規制は、安全を確保すること、有益なものであることなどを除いてはおそらく昔も今もないのではないか。学校の裁量で学校の現状(市街地、農村、山間、子どもの資質や能力、発達段階、生活意識、生活習慣、地理的条件、経済的条件、保護者の意識、訪問地の価値や安全等々)に即して適切な方法、内容によって実施すればよいということではないだろうか。同じ地域在住とか同じ学年だからという理由で同じ所にしなければならないということではないと考える」
8.私の修学旅行については本稿の下記掲載記事で簡単に触れているが、ここでは記憶をたぐってさらに詳しく述べてみたい。
  13年7月22日掲載・本稿第六部「☆短期周遊型旅行、団体旅行」(5段落)

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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