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少人数学級、『二十四の瞳』、複式授業




          私の体験した敗戦前後の小中学校教育(6)

          ☆少人数学級、『二十四の瞳』、複式授業

 私が大学に入るころ(1950年代半ば)だったと思うのだが、「すし詰め学級」とか二部授業とかが新聞・ラジオで騒がれるようになった。戦後のベビーブーム世代の入学にともなう児童・生徒数の増加と教師・教室不足から生徒が教室に入りきらないので、生徒を午前と午後の二つに分けて授業する「二部授業」や、一クラス当たり50人以上の「すし詰め学級」が社会問題となったのである(私などはすでに戦中・敗戦直後にすし詰め学級・二部授業ともに体験していたのだが)。
 ちょうどそのころ、映画『二十四の瞳』(註1)が公開され、大きな反響を呼んだ。私も本当に感動し、とくに最後の場面では涙し、同時に一学年1クラス12人のような小規模校・少人数学級をうらやましく思ったものだった。すし詰め学級を自分も体験しているからなおのことだった。

 小規模校や少人数学級があるということは知ってはいた。市町村の圏域の広狭、人口の多少やその密度、標高や起伏等の地勢の様相、道路や鉄道などの社会基盤の整備程度等々によって小学校やクラスの生徒数は異ならざるを得ず、なかでもそうした諸条件に恵まれていない農山村、島嶼部等のなかには小規模校・少人数編成クラスにならざるを得ないところがあることは、子どもの頭でも理解できたからである。そうした地域での高学年の男女共学にしてもそうである。少ない人数を別学にしてさらに少なくするわけにはいかないからである。いくら統制好きの国の行政も地域の実情を認めないわけにはいかない。
 少人数編成学級、これはうらやましかった。多人数クラスのように生徒は先生にとって「その他大勢」ではなく、先生は生徒が遠くから見ていなければならないような別世界の人ではなく、教師と子どもたちは密接につながり、子どもたちは先生に一人一人きめ細かく見てもらえる、懇切丁寧に教えてもらえる、きっと楽しいだろうからである。『二十四の瞳』はまさにその通りだった。
 もちろん、これは小説や映画のなかだけの話、現実はそんなものではないだろうとも思ったのだが、やはり少人数教育はいいものだと感じたのは、それからまたかなり後、教師になった私の弟二人のことからだった。

 山村の小学校が初任地だった弟の話を前にした(註2)ことがあったが、その学校は一学年1クラスで生徒は12人、まさに「二十四の瞳」だった。四年から六年までの3年間受け持ったが、毎年夏休みになると山形の生家に連れてきて泊め、都会(前にも書いたが山村の子から見ると山形は大都会だった)の生活を体験させたりしていたが、弟が若くして死んだとき卒業していた教え子がほとんど全員葬儀に参列してくれ、みんな泣き崩れていたのを見たとき、まさに「二十四の瞳」を思い起こさせ、少人数教育の良さを感じさせたものだった。
 その下の弟も教員となったが、初任地が交通僻地の農村の小学校で、何という偶然か、やはり1クラス12人だった。ある時急用で一時間目を休みにして遅れて学校に到着したら、子どもたちが外に出て教室の壁に寄り掛かり、みんなしょんぼりうなだれながら弟の来るのを待っていた。車から降りた弟を見つけた子どもたちはみんな駆け寄ってきて、弟を取り囲んだという。こんな教師と生徒の関係、多人数教育ではちょっと考えられない。弟もあの時が教師生活で一番よかったという。

 それなら、生徒数は少なければ少ないほどいいのか。
 そうでもなさそうだ。複式学級(=二つ以上の学年の児童・生徒を一つに編成した学級)にさせられてしまうからだ。
 たとえば一学年3、4人の生徒しかいないのにそれを1クラスにして先生1人が教えるのはもったいない、それで二つの学年の生徒を1クラスとして1人の先生が両方同時に教えるようにする「複式授業」にしてもかまわないということになっているのである(現行では二つの学年の児童数が16人以下であれば複式学級にしてもいいということになっているとのことである)。そうしたやり方があることを知ったのは戦後かなり経ってからだったが、どのようにして一人の先生が二学年を同時に教えるのか不思議だった。それを誰から聞いて知ったのか覚えていないが、ある学年に先生が授業をしている間は別の学年に課題を与えて自習をさせておき、一定の時間が来たらそれを交代するというやり方をするのだそうである。
 それを聞いたときまず考えたのは、このやり方では集中力のない私などはついていけないだろうということだ。自習させられているとき、別の学年に授業をしている先生の声が耳に入り、そっちを聞いてしまってあるいはうるさくて自習に身が入らないということになってしまう危険性が多々あるからだ。そもそも先生が授業していても他のことを考えたりボーッとしていたりする私のことだからなおのことだ。
 もちろん、自学自習のくせがついてかえっていいこともあろうが、勉強があまり好きではない、好きなことしかやる気のしない私の場合などどうだろうか。
 また、先生の授業を直接受ける時間が半分ということになれば、いくら自習の時間があるといっても勉強が遅れてしまわないか、一学年でやるべきことが終わらないでしまうことにならないかが心配にもなる。普通の授業をしている私たちでさえ三学期の最後には教科書の最後の方を習わないで終わるのが普通だったほどなのだ。
 教える先生も大変だ。二つの学年を同時にしかも違ったやり方で教える、そして両方に目を配る、こんな難しいことをやるなどまさに超人的、その負担はかなり大変なのではなかろうか。
 こんなのだったら、前に述べた「二部授業」の方がまだいい。集中ができるからだ。複式学級、何とか解決の方法が考えられないだろうか。

 複式学級にしなければならないほどでないとしても、あまりの少人数の学級には他にも欠陥もある。
 たとえば、同級生が少ないために多面的な考え方を知ったり、幅広く論議したりすることができず、変わり映えしない顔と6年間(地域によっては中学まで9年間)もいっしょで刺激もなく、クラス替えなどによる新鮮さもなくてマンネリに陥りやすく、野球チームをつくって遊ぶなども難しく、さらに大集団での行動を経験する場も不足する等々、多人数の良さを味わうことができない等々の問題点もあるからだ。

 だからといって学級や学校の規模が大きければ大きいほどいいということにはならない。マンモス校、すし詰め学級ではどうしようもない。
 そんなことから現在は学級の編成人数を最大40人(第一学年の児童で編制する学級は35人)と法律で定められている(註3)。私たちの子どものころから比べると子どもにとっても教師にとっても本当によくなった。
 しかしもっと少なくともよいのではなかろうか。ましてや教師は今きわめて多忙になっているようであり(課外活動、父母対応、事務処理等々、昔と比べて本当に大変らしい)、子どもに対するきめ細かい面倒をまともに見られないという話をよく聞くからだ。そんなことから、以前から30人学級の要求が出ているのだが、なかなかそれは通らない。それどころか、一年生の35人を40人に増やせなどと財務省は言っているという話も聞く。小学校で英語の授業を始める(そんなことよりもまず国語力をつけるべきだと思うのだが)などと言っているにもかかわらずである。政財界は一体何を考えているのだろうか。

 もう一方で、農山村地域では過疎化・少子化により、廃校・統合、少人数編成学級、通学手段等々が大きな問題となっている。大都市でも中心部や古い住宅団地での人口減少、高齢化による廃校問題が起きている。しかし、多国籍企業の利益しか考えない、その利益拡大に役立たせるための素材としてしか子どもを考えない政財界は、そうした問題解決のためのバランスのとれた産業政策、人口政策、国土利用政策を展開しようともしない。
 戦後いろいろな過程を経ながらも子どもたちをめぐる環境をよくしてきたのに、ますますよくなるどころかまた逆戻りしていく、そんな風に思えるのだが、困ったものである。

 ちょっと蛇足、『二十四の瞳』を大学時代に見たとき、原作の場であり、ロケの現場となった香川県の小豆島に一度行ってみたいとあこがれたものだった。でもまあそんなことは無理というものと思って過ごしてきた。ところがあれから50年も過ぎて実現した。たまたま私の第二の職場だった農大の教え子に小豆島の出身者がおり、それが縁で彼の後輩の研修旅行の場の一つを小豆島の彼の家のイチゴ経営にし、私が引率して行った(註4)ことで、とうとう機会に恵まれたのである。その後もその教え子の結婚式に家内と二人で出かけるなどして、小豆島を堪能させてもらい、また『二十四の瞳映画村』(註5)もなつかしく見させてもらった。
 『二十四の瞳』の映画を見た方にはぜひ小豆島に行って改めて感動を思い起こしてもらいたいし、まだ見ていない方でも小豆島の映画村を見ていただいて(もちろん島には寒霞渓、オリーブ園をはじめ見るところはいくらでもあるが)、いつか映画を観て、あるいは小説を読んでいただきたいものである。

(註)
1.原作:壺井栄、監督・脚本:木下惠介、主演:高峰秀子、製作:松竹大船撮影所、1954(昭29)年。ご覧になっていない方は、ぜひ見ていただきたい。
 なお、1987(昭62)年に、監督:朝間義隆、主演:田中裕子、製作:松竹で再度映画化されているが、これでももちろんかまわない。原作・脚本が54年版と同じであり、DVDも出ているようだからである。
 それから、原作の小説・壷井栄『二十四の瞳』、これもいい。特に冒頭の文章が印象的である。新潮文庫から出ているはずである。
2.11年6月27日掲載・本稿第二部「☆過疎化の相対的な未進展」(2段落)参照
3.さきほど述べたベビーブーム世代の入学に伴う教育条件の悪化が懸念された1958(昭33)年に制定された「公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律」で決められ、一年生については後に35人になったものである。
4.13年1月10日掲載・本稿第五部「☆植物工場と資源環境問題」(5段落)参照
5.87年販の映画のロケのときのオープンセットなどの施設群を活用しており、昭和初期の小学校や庶民の生活を感じ取ることもできる。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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