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山村の貧困と修学旅行



          敗戦前後の盆地の小都市・農山村と修学旅行(13)

         ☆山村の貧困と修学旅行―山びこ学校の村とT村―

 1951(昭26)年に出版された『山びこ学校』、私たちと同じ山形盆地の南西部にある山元村(後に上山市に合併)の中学生(私たちと同学年)の学級文集で、52年には映画化もされて全国的に評判になった本である(註1)。
 この山元村は、AR君のT村から言うと、その真向い西側に連なる白鷹丘陵の南端に位置している。T村の奥羽山脈の山間集落と同じような山間僻地・寒冷地であり、山間傾斜地のわずかな田畑と薪炭生産などで生計を維持してきたが、働いても働いても貧しい生活を送るしかなかった。『山びこ学校』はそれをまともに見つめた子どもたちの作文集なのだが、そのなかに修学旅行の話が出てきたのを思い出した。たしか貧しくて旅行に行けない子どもたちがおり、それを何とかしようとみんなで協力する話がそのなかにあったはずなのである。
 しかし、本当にそうだったか確かめようにも私の手元には『山びこ学校』の本がない。そこでやむを得ず、パソコンでそのあらすじを検索してみた。そしたらたしかに修学旅行の話があった。

 そのなかで私の注目した一つは、生徒たちが修学旅行の行き先を蔵王山にするか、湯野浜にするかを決める話である。蔵王などは温泉があるといっても自分の住んでいる村と同じ山の中、そんなところに行きたくない、海が見たいということになったという話だ(註2)。
 そうなのである、海を見たいという思いがあるから前に述べたように山形盆地に住む私たちも湯野浜修学旅行だったのである。
 しかしそこで疑問になった、私たちは小学校六年のときに湯野浜だった、ところが山元では中学校の最後の修学旅行である、なぜなのだろうかと。

 もう一つ注目したのは、43人の生徒のうち8人がその修学旅行に行けないと言うので、生徒たちはみんなで杉皮運びをしてその費用を作り、全員参加できるようにしたという話である(註3)。
 これはきわめて感動的な話なのだが、前にも述べたように戦前戦後の山村は本当に貧しかった。この山元村もそうだった。クラスの2割もの子どもが修学旅行の費用を出せないというのもその一つの表れだった。
 小学六年の修学旅行の時、遠隔地でお金のかかる湯野浜にしなかったのもやはりそれが理由だったのではなかろうか。
 また、中学の修学旅行が私たちのように東京ではなく、東京よりずっと安く行ける蔵王と湯野浜が候補地としてあがったのも、やはり費用の問題からではなかったろうか。

 前回述べたAR君のT村小学校も、山元村と同じく、湯野浜修学旅行ではなかった。中学も私たちと違って東京旅行ではなかった。非常に似ている。
 そして両者に共通するのはともに山村的性格を持っているということだ。もちろん山元村の方がより山村的性格が強く、より交通僻地ではあるが、共通する点はそこだ。
 とすると、T村小学校の修学旅行が白岩、福島など近距離だったということは、山間部の交通不便も理由の一つだったとは思うが、それ以上に貧困な山間部をかかえ、遠隔地への修学旅行では参加できない子どもが多く出る危険性があることが主因だったのではなかろうか。

 もちろん、平坦地の農村も当時は貧困だった。たとえばさきに述べたようなAH君のO中学にも修学旅行に参加できない子どもがいた。しかしその人数が違った(註4)。山元村がはるかに多かった。
 しかもAH君の中学の場合は目的地は東京・江の島であり、山元の場合は県内の湯野浜で費用はかなり安いはずなのにである。 ついでにいえばAH君の地域ではすでに小学校の時に湯野浜に行っている。それを山元では中学でしかいけず、それすら旅費を出してやれない家があったのである。
 それならみんなの行ける近距離の安いところにしようと山元の小中学校が企画したということなのではなかろうか。
 AR君のT村の小中学校もきっと同じなのだろう。そこでAR君に聞いてみるとそうかもしれないと言う。山間部から通っている子どもたちは全体の約2割だったが、そこの家庭は本当に経済的に余裕がなく、開拓農家もあり、着た切り雀のような同級生もいた、もしも湯野浜や東京の遠距離・泊まりの修学旅行となるとその費用を出すのはかなり大変、行けない子どもがたくさん出てくる、それで近距離、泊まりなしということになったのではないかとのことなのである。
 このように、山村の貧困が都市部や純農村部との修学旅行との差異を生み出したと考えられるのである。

 いうまでもなく、東北の山村の貧困は山間・寒冷地という自然的社会的条件の厳しさから来ている(註5)。
 山間傾斜地であるが故にどうしても耕地面積は少なくならざるを得ない。しかも寒冷地であるが故に栽培可能な作物は制限され、栽培期間の短さや冷害等の災害で単収は低くならざるを得ない。加えて、傾斜地であるために耕地は分散し、区画も小さいために単位面積当り労働時間が多くなる。こうした結果としての収入の少なさを薪炭生産等の林産物で補おうとするが、林道などろくに整備されていない段階では生産量も労働生産性もきわめて低い。
 さらに、生産物の販売先、資材の購入先は遠隔地にあり、冬期間などは積雪で交通途絶にもなり、買うものは高く売るものは安くならざるを得ない。
 そのために、働いても働いても、学校を休ませて子どもを働かせても、生活は苦しかった。
 それに拍車をかけたのが地主小作制度や山林地主による林野利用の制約だった。

 戦前の日本資本主義はこうした山村の不利な自然的社会的諸条件を解決するための社会資本整備や農林業振興のための施策を展開せず、また古い土地所有関係の改革もせず、侵略戦争と財閥系の商工業の育成にのみ金をつぎ込み、貴重な中堅の労働力を兵士として召集してさらに繁忙期の人手不足を深刻化させ、その暮らしを圧迫してきた。
 もちろん、戦後の農地改革をはじめとする民主化は山村にも大きな変化をもたらした。しかし、自然的社会的諸条件は今まで通り、都市はもちろん平地農村との地域格差も変わらなかった。
 修学旅行の都市・平地農村と山村の差異はその一つの現象形態だったのである。

(付記)
 この『山びこ学校』は戦後の生活綴り方運動に大きな影響を与えたのだが、そのことについてネットから引用した文にもとづいて若干説明をしておきたい。生活綴り方運動は秋田、山形など東北が大きな位置を占め、全国にいろいろな影響を与えたものだからでもある。
 生活綴方運動は、「現実の生活を見つめ,生活のなかで思い考えたことを率直に書かせる指導を通じて表現力を高めるとともに、生活をリアルに認識し、生活を変革していく主体を育てることを目的とした。1929(昭4)年に雑誌『綴方生活』が創刊され, 自由教育運動、とくに『赤い鳥』の運動を深化させていった。構造的な貧困に苦しめられていた東北地方では〈北方性教育運動〉として広がった」(註6)。「特別高等警察は、困難な生活を見つめれば社会への問題意識を生み、反体制的な思想を受け入れやすくなると判断。40年から取り締まりを始め、終戦までに全国で約300人の教師が検挙された」(註7)。
 なお、この生活綴方運動で戦前逮捕された教師の村山ひでさんという方(註8)から直接そのお話を聞いたことがある。そのころは反体制など特別な考えをもっていたわけではなく、文学少女だったので生活綴方に関心をもって取り組んでいただけ、それなのに治安維持法違反で捕まってしまった、と笑っておられたが、さきの国会での共謀法の論議を聞くたびに村山さんと治安維持法を思い出し、またあんな世の中には戻りたくないと思ったものだった。
 話を戻そう、戦後になって生活綴方運動が復活したが、山元中学校の教師無着成恭は戦後の「理想主義的な教科書記述と貧困な東北山村の現実との矛盾に苦慮し」、「子どもが生活の中で見たり、聞いたり、考えたり感じたりしたことを綴ることを基礎に、その綴方を『生活勉強』と呼ばれる共同学習のなかで批評しあう」という教育を通じて「子どもの生活認識が主観的なものから普遍的なものへ、個人的なものから社会的なものへと高まることを求め」ようとし(註9)、その実践の結果である子どもたちの綴り方・学級文集が評価されて書籍となり、映画化され、全国に大きな反響を呼んだものである。
                         (次回掲載は8月21日とさせていただく)                  

(註)
1.無着成恭『山びこ学校』、青銅社、1951(昭26)年刊、
  映画『山びこ学校』、監督:今井正、製作:八木プロダクション・日本教職員組合、配給:北星映画、1952(昭27)年
2.「www.amazon.co.jp/山びこ学校-DVD.../B000BD885A」より引用
3.「山びこ学校|映画Movie Walker」より引用
4.17年7月17日掲載・本稿第九部「☆修学旅行に行けない子の存在」参照
5.東北の山村の厳しさについては本稿の下記掲載記事で他の地方とも比較しながら述べているので参照されたい。
   11年6月24日掲載・本稿第二部「☆耕して天に至れなかった東北」
6.「wikimatome.org/wiki/生活綴り方運動」より引用
7.「kotobank.jp/word/生活綴方-845923 」より引用
8.村山さんは、戦後レッドパージで教職から追放され、その後山形県東根市の市会議員(共産党)を長く務められた方である。私の戦前の農民運動の調査研究の時に当時の運動の指導者の生き残りの方をご紹介いただき、その方から聞き取った話を中心に論文をまとめることができたのだが、そのときに村山さんからこの逮捕の話を聞かせてもらったものである。
9.「ameblo.jp/shchan3/entry-11126501189.html」より引用

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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